和食ブームだそうだ。嘘か真か確かめようも無いが、身辺を見回す限り、洋食全盛だ。そもそも和食とは何ぞやと改めて思い巡らしてみると、曖昧模糊と掴みどころが無い。いちおう定義を試みれば、西洋料理や中華料理などではない、日本固有の料理などという安直な言い方も出来るが、外部からの影響を受けない文化はあり得ないから、これは現実的な定義にはなり得ない。
日本で日本人に食される料理で、外来と認識される要素を除いたもの、なんて定義では抽象的に過ぎるようだし。となると、概念規定は諦めて、始めから、これが和食であると具体的なメニューを呈示するのが速くて、確実だ。
學士會会報No.922(2017-I)所収「和食文化を再考する」(熊倉 功夫)は、将にそのような書き方で和食(文化)を概観してみせる。和食の歴史、特徴、現状と課題など解り易く述べられていて、教えられることが多い。
熊倉氏の本論からは逸れるが、当方が一番関心を持ったのは、≪図4(巻頭カラー掲載)は、一九三〇年代の金沢での結婚式の料理の復元です。結婚式なので、最初に大盃が巡ります(図5)。歌曲『荒城の月』の歌詞「春高楼の花の宴 巡る盃影差して」の「巡る盃」がこれです。≫という説明だ(p.59)。
大盃は、図から推測するに、直径三十センチほどは有りそうだ。「巡る盃」については、武士たちの酒盛りで回し飲みに使われる茶碗のような盃程度のイメージを何十年も持っていたので、結婚式で使われる立派な大盃と教わり、大いに驚いた。そうなると、「春高楼の花の宴」も、それなりに立派な宴を想定しなければならない。単なる「酒盛り」ではいけないのだ。
「巡る盃」が気になって念のため検索したところ、思いもかけない珍しい解釈のあることが判った:
質問 日本の歌「荒城の月」の歌詞にある「めぐる盃」の意味
回答 「春高楼の花の宴めぐる盃かげさして」の大意は、毎年春になればこの城の領主は「高楼」で桜の花見の宴を催したが、年毎にめぐりくる花の宴も「盃かげさして」盛大でなくなった。≫
権威ある国会図書館のサイトに公開されている情報なので、敬意を払わねばならない。「影差して」とは、“陰りが見えて”とか“勢いが無くなって”とかの意味に理解されている。