半年前に≪高折周一が、ポトマック、ハドソン両河の桜植樹式典(1912年)において自身の編曲になる「さくら、さくら」を指揮・演奏したのか否か(ニューヨーク・ハドソン川~サクラ植樹祭1912~「さくら、さくら」演奏 2016/4/15(金))、アクセス容易な資料で確認する努力を続けているのだが、未だ要領を得ない≫と記した(ポトマック桜~「さくら、さくら」演奏~高折周一? 2016/5/8(日))。
その後、情報源と目される“当時の時事新報”が某図書館に蔵されていると判り、閲覧を申し込んだところ、断られた。保存状態が悪いので、どこの馬の骨かと疑われるような一見の庶民には見せられないというような態度であった。
ところが、最近運良く、目当ての新聞記事をそっくり再掲した貴重な資料を見る機会に恵まれた:
≪ニューヨークの桜 高峰譲吉博士の努力
三月末、日本から到着して以来、グラント墓所の傍、李鴻章の手植の樹の向側に米国当初の十三州を象り、十三本を一列として数十列に植付け四月二七十(ママ)日が故グラント将軍の誕生日に当たるを幸ひ、同日最後の十三本を以て植付式を挙行するまでの運びとなった。生憎と其日は雨に妨げられて延期の止むなきに到ったが、翌二十八日は此春に入ってからの好日和。日米の国旗麗らかに翻り、仮りに設へた桟敷には米国知名の士、在留邦人を始め折柄来遊中の日本赤十字社の小沢男、小笠原伯夫妻、長崎氏夫人等が参列する。軈て人波を割って十三名の米国少女が美々しき日本服を纏ひ、手には一様に三尺程の桜の若木と紅白のリボンをもって飾った鋤とを携へて練り込み、右の桜を定めた場所に植え付ける。高峰博士、ホドソン・フルトン祝祭委員会々長ウッドフォード将軍の挨拶がある。桜寄贈の次第を記した東京美術学校調製の銅牌が開披せられる。その間日本の作曲家高織(ママ)教授(高折宮次)の手になった「万歳」と「サクラ」という楽が奏せられる。綺麗事づくめで、芽出度式は閉ぢられたが何がさて快晴ではあり、日曜に当った事とて、人出多く非常の盛況を極めた。最後に前記ウッドフォード将軍の挨拶が頗る振っているから、茲に紹介する。曰く、
ホドソン・フルトン祭の折英、仏、独、蘭その他の国は、或は軍艦を送り或は名将を派して祝意を表したが、日本は一の軍艦一の名将をも派せずしてその代りに茲に数百株の桜を贈って来た。軍艦は戦争を表象し、桜は平和を現はす。
桜が外国へ行って戦闘艦以上の働きをするとは、一寸珍しい話ではないか。
(明治45年5月28日 時事新報)≫
これは、東京都(建設局公園緑地部)編著「合衆国首府 ワシントンの桜
Japanese Cherry trees in Washington, D.C.」(1960)、p.79からの転記である。文中、(ママ)は当管理人の注記である。
「万歳」と「サクラ」の作曲者に擬せられた“作曲家高織教授(高折宮次)”とは誰か:
≪デジタル版日本人名大辞典+Plusの解説
高折宮次たかおり-みやじ 1893-1963 大正-昭和時代のピアニスト,教育者。
明治26年5月25日生まれ。ドイツに留学してクロイツァーに師事。帰国後母校東京音楽学校(現東京芸大)の教授,のち北大教授,北海道学芸大(現北海道教育大)教授。演奏活動のほか,国内外の音楽コンクール審査員としても活躍した。昭和38年11月9日死去。70歳。岐阜県出身。教則本に「ピアノの弾き方」「ショパン名曲奏法」など。≫
生没データによれば、1912年当時は19歳の勘定であり、“作曲家高織教授”には若過ぎる。高折宮次の名は東京都の編著担当者が時事新報の記事に挿入したものではないかと推定される。