図書館に予約を入れて約2か月後に順番が回って来て読み始めた本:
「<わたし>は脳に操られているのか」(エリエザー・スタンバーグ/著、大田直子/訳、2016.9発行:インターシフト 334頁/定価2300円+税)
発行元によるキャッチコピー:
≪つい悪いことをしてしまうのも、脳のせい?
なにかをしようとする前に、すでに脳(無意識)がそれを決めている。
では、人間に自由な意志はあるのか?
脳科学の最重要テーマ「自由と倫理」「意識とアルゴリズム」に挑み、
「自由意志はある」と解き明かして、大きな反響を呼んだ話題作!≫
人の意思及び行動は、脳の働きの結果であるというのが現代の神経科学における定説である。脳の働きと簡単に言うが、全身に張り巡らされた神経組織網の総合作用とでも表現するべきだろうか。
個々の神経細胞に関わる素原的物理化学反応は詳細に研究され、人の意思及び行動が決定されるプロセスの解明が着々と進んでいる。脳細胞への電気的あるいは化学的な刺激が人にどのような反応を起こさせるかが明らかになりつつある。
かくして、人の意思及び行動はすべて脳あるいは神経組織内の物理化学反応に還元され、人の≪自由≫意思の居所が無くなる。自分の自由意思によって思考し、行動していると思い込んでいるが、実はその意思自体が神経細胞内の物理化学反応の結果であるとすれば、≪自由≫など幻想である。
というような≪神経生物学的決定論≫を前提とすれば、人に自由意思や道徳的責任を期待することは的外れとなる恐れがある、との危惧を著者は払拭してくれるのだ。本論はこれからの楽しみとして、≪決定論≫に対する≪自由意思論≫あるいは≪主体性論≫という二元論の設定が必要なのかどうか、些か気になるところだ。
換言すれば、≪脳≫と≪わたし≫を対置して議論する土俵に上らなければならないのかという問題意識である。著者が精魂傾けての力説に、序論を読んだだけで水を掛けるのは気が引けるが、当方思うに、≪脳≫と≪わたし≫とを対置する必然性は無い。
両者は同一のものを別の角度から見ているだけではないか。物質的次元での作用を担うのが≪脳≫であり、その作用主体に人格を付与した概念が≪わたし≫ではないのか。両者を別のものとみて悩む必要は全く無い。本書に紹介されている≪両立論≫とは別である。