名伴奏家ジェラルド・ムーアは、「お耳ざわりですか」より前に、「伴奏者の発言」(原題 The Unashamed Accompanist(恥知らずの伴奏者), 1944、大島正泰・訳 1959 音楽之友社)を著わしている。
伴奏者という言葉には、今でも“独奏者や歌手の補助演奏者”の響きがある。それを嫌い、対等の立場であることを意味する“共演者”と称することもあるようだが、用語としては伴奏(者)が依然として一般的である。ただし、共演者の意味を込めて、敢えて伴奏者の語を用い続ける向きもあるようだ。
ジェラルド・ムーアは、伴奏者Accompanistの呼称に誇りを持つ人であった。そのことは、「伴奏者の発言」まえがきに簡潔に述べられているが、≪第一章共同者の関係≫において具体的に独奏者(歌手)との五分五分の関係を説明した後、次のように締め括っている:
≪私は自分が伴奏家と呼ばれることを少しも恥じない。しかし多くの人にとってこの名称は多少とも劣った階級を意味する焼印である。私を愛してくれる叔母は、何故私が独奏ピアニストにならないのかと尋ねるが、これは彼女だけではない。音楽家でさえ同じ質問を私にするのだから。いずれにしても誰かが伴奏をしなければならないのであって、私はこの伴奏が好きなのである。~~~
庭球家やゴルファーの中には、ダブルのゲームよりもシングルの方を好む人々もあるが、私は協力関係が好きである。独奏ピアニストは、ひとり淋しく演奏するスリルと栄光を楽しめばよい。私は協力から、そして完全なチームワークのもたらす喜びから、私の音楽的なスリルを今後もひきつづき得ていきたいと願っている。≫
翻訳に疑義を感じる部分が無きにしも非ずなのだが、大意は明らかである。独奏者(歌手)とピアノ伴奏者とが協力し合って一つの音楽を作り上げる喜びに彼は価値を見出しているのだ。
特に歌手との関係について具体的に詳しく述べている中から、言葉についての彼の考えを抜粋してみよう:
≪~まず勉強しなければならないことは、言葉である。~伴奏者と声楽家は、双方ほとんど同じ程度に言葉の恩恵をうけ、言葉によって導かれなければならない。~(外国語に通じていないことは言い訳にはならない。歌の意味が解らない時は)歌手に頼んでおのおのの行の意味を教えて貰うか、~詩の要点を話してもらうとよい。~(作曲者の不注意を伴奏者が独創の才と技術で補い、歌の意味にふさわしい演奏としなければならない場合もある)~≫
外国語の歌に限らず、演奏する場合にはその内容を理解してはっきりとしたイメージを持たなければならないと主張しており、これは当然のこととして首肯される。