雑誌≪音楽界≫1915(大正4)年1月号に「哀悼の歌 三角錫子 五年まへの今月二十三日」という記事が載っている。七里ヶ浜遭難事件として知られる逗子開成中学生徒十二名の水難事故(1910.1.23)を題材として今に歌い継がれる「七里ヶ浜の哀歌」あるいは「真白き富士の根」の歌詞全文を紹介するものである。
三角自身の挨拶文が添えられている。古風で婉曲な言い回しの難解な部分もあるが、推測を交えて、大要次の通り:
≪貴誌に載せるほどの歌でもないが、度々のお奨めもあり、歌詞と楽譜を提供する。事故当時、今上陛下が葉山に、東伏見宮殿下も逗子に滞在中で、騒ぎは大変だった。私は、寝られなかった二夜のいたずらにこの詩を書いた。二月六日の追吊會には鎌倉高等女学校の生徒が歌った。ほんの哀悼のつもりで作ったものが日本中に流行しましたが、これは本意でなく、残念です。そんなことならもっとしっかりした詩を作ればよかったと思う。≫
哀悼の歌
一 真白き富士の根、緑の江の島 仰ぎ見るも、今は涙
帰らぬ十二の、雄々しきみ霊に 捧げまつる、胸と心
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六 帰らぬ浪路に友よぶ千鳥の 我も恋し失せし人よ
つきせぬ恨みの泣く音は共々 今日もあすもかくて永久に
原題は単に「哀悼の歌」であったことになる。確かに、事故直後の追吊會(ついちょうえ:追悼の儀式)に歌うことだけを考えて作ったとすれば、これで十分だっただろう。全国に広まる過程で然るべき題名が付されたものと思われる。