少し前の事だが、東野圭吾「ラプラスの魔女」(KADOKAWA 2015.5)を図書館から借りて読んだ。何故か予約申し込みが殺到し、忘れた頃に順番が回って来たものだ。区の全図書館に合せて31冊も購入されており、それでも未だに240人待ちの状況である。
当方がこの本に興味を持ったのは、新聞の書評欄で見掛けたからであることは間違いない。もともと、「ラプラスの悪魔」と言われる機械的運命論が頭の片隅にあったことも与っている。
≪もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。—『確率の解析的理論』1812年≫
この「知性」を俗に“ラプラスの魔物あるいはラプラスの魔”(Laplace'sdemon)と呼ぶが、伊勢田哲治氏(京大院准教授)によれば、この語が最初に使われたのはドイツの生理学者エミール・デュ・ボア=レーモン(1818‐96)の1871年の講演「自然認識の限界について」で、原語は“Laplacescher Geist”ある。
つまり、“ラプラスの霊”と訳するのが相応しいとのことである(科学哲学の温故知新32「一九世紀末から二〇世紀初頭の科学哲学(5)」ミネルヴァ通信「究」No.062, 5.2016)。
要するに未来予知能力の類いを意味するもので、頭記小説は、そのような超能力を身に付けた若者男女が絡む殺人事件を展開させる。書名からネタバレしているので、推理の醍醐味は期待できない。結局、SFとしてしか読めないので、あまり面白くはなかった。