「流浪の民」の訳詞者、石倉小三郎とは、ウィキペディアによれば、≪石倉小三郎(いしくらこさぶろう、1881年6月15日- 1965年10月30日)は、日本の音楽家、ドイツ文学者。東京出身。東京帝国大学卒。東京音楽学校講師、第四高等学校(金沢)教授、第八高等学校(名古屋)教授、第七高等学校(鹿児島)教授を歴任ののち、 ...≫である。
このような通り一遍の略歴に留まらない、生き生きとした人物像を髣髴させる記事を、彼の赴任先である第七高校、現在の鹿児島大学のHPに見付けた:
≪石倉小三郎といえば、シューマンの<流浪の民>の名訳者として知られるが、帝国大学の独文科学生と音楽学校の聴講生を兼ねながら、ワグネル会を創設、<オルフェオ>の初演訳、ドイツ・リートの訳等、ケーベルと共に日本に於ける西洋音楽の曙に寄与した ...≫
注目したのは“<オルフェオ>の初演訳”だ。オルフェオ初演については、≪暑気中り~オーストリア最後通牒~日本人歌手による初オペラ≫と≪一高水泳部歌「狭霧はれゆく」~C.W.グルック~オルフェオとエウリディーチェ≫の中で触れた。
後者の投稿で、“この時は乙骨三郎、近藤朔風、石倉小三郎等のチームが訳詩を担当し、日本語上演された。(ウィキペディア)”と引用しているから、石倉の名は目にしているのだが、「流浪の民」にまでは思いが及ばなかった。
さて、≪日本人が最初に上演した本格的な歌劇として、日本洋楽史上においても記憶されるべき≫と評される1903年(明治36年)のオルフェオ初演であるが、その後、日本における歌劇の上演は一旦頓挫したようである。またまた「音楽界」からの引用である:
≪~十年前に於て東京音楽学校の教職員生徒が、俗論を排し、万難と戦ひ、オルフォイスを同楽堂に於て上場したる~其の後第二回の歌劇試演は試みられんとし、準備正に熟するに至りて時の文部大臣牧野伸顕氏は突如之が中止を命したり。~≫(大正3年7月号 誌説「グルックの二百年祭」 主筆山本正夫)
名指しされた元凶・牧野伸顕は、≪(1861~1949)政治家。鹿児島県生まれ。大久保利通の次男。文相・農商相・外相などを歴任。内大臣となり天皇側近の実力者として重きをなした。二・二六事件で襲われ,引退した。吉田茂はその女婿≫(大辞林第三版)で、歴史に残る大物と言える。
ウィキペディアによれば、≪牧野には自分も興味をもっていた芸術・文化への貢献がある≫のだが、具体的には、美術及び文学の分野であったようだ。音楽には趣味が無かったのだろうな。