一昨日の「ワルラスの樫の木」に係る出典探索譚((ワルラスの樫の木~安井琢磨~根岸隆2016/5/11(水)))からの連想で思い出したことがある。春秋社PR誌≪春秋≫2016.4号所載「森有正先生とバビロンの流れ日本オルガン小史(7) - 馬淵久夫」だ。
我が合唱遍歴中、「バビロン」に因む曲は二つ、「バビロンの流れのほとりに」(G.P.da パレストリーナ)と「行け我が想いよ黄金の翼に乗って」(G. ヴェルディ)で、前者は練習途上で中断したまま数年過ぎた(思い出でて~~~思い出づる~~~他動詞? 2009/1/15(木))。
この懐かしい(しかし忘れてしまった)「バビロンの流れのほとりに」の歌詞は、旧約聖書詩編137の冒頭から採られたそうだ(Super Flumina Babylonis):
“バビロンの流れのほとりに座り
シオンを思って、わたしたちは泣いた。 ~ ”
馬淵氏によれば“日本が生んだ稀有な哲学者”森有正の著作に『バビロンの流れのほとりにて』がある(講談社 1956)。氏は直感的にドイツ語の≪AnWasserflüssen Babylon≫を思い浮かべた。上記ラテン語の≪Super Flumina Babylonis≫に対応する。
ところが、同書の「あとがき」には、≪題は、パスカルの『パンセ』の一節から取った。意味は読者が自由につけて戴きたい。~≫と書かれていた。その一節とは、断章番号459に違いない:
“バビロンの川は流れ、くだり、巻き込む。/ああ、聖なるシオンの都よ、そこでは、すべてのものが留まり、、、、、/その快楽が留まるか流れるかを見よ。もし過ぎ去るならば、それはバビロンの川である。”(前田・由木、中公文庫、1973)
これには、「バビロンの流れ」まではあるが、「のほとりにて」は無い。森先生が“意味は読者が自由につけて戴きたい”として、われわれに宿題を与えたのだと馬淵氏は納得したのだそうだ。