きょう、いわゆる五輪エンブレムの最終決定があるそうだ。(現代風の)五輪開催は国民負担の増大、日常生活の圧迫、環境破壊の助長などの元凶と考える当管理人にはバカ騒ぎにしか見えないが、どうしてもそのニュースは目に入る。
最終候補作品が新聞紙上に並んだのを見ての印象は、どれも似たようなデザインであるということだ。実に不自然だと思った。応募が数千点にも及んだにしては多様性が無さ過ぎる。絞り込み過程に、特定の趣味あるいは方針が作用したことは疑い無い、と言っては行き過ぎか。
そもそも、絞り込む必要は無いのではないか。全応募作品を対象にして、関心のある人すべての投票で決めればよいのではないか。その程度の手間、金などは、湯水の如く使いまくった五輪誘致費や実施に要する巨費に較べれば微々たるものだろう。
決定撤回のゴタゴタ騒ぎがあったにも拘らず、再度密室処理の過程を踏んだのは何故だろうか。五輪を“自分たちの特権”と意識する一部の人達が依然として実権を握っているのか。
五輪は当方に縁の無いイヴェントながら、つい愚痴をこぼしてしまった。故無き被害者意識と言うのかな。