北国に滞在中、偶々次の新聞記事を見た:
“岩手県道1号〈盛岡・横手線〉 岩手県西和賀町 日本一の保健医療の村は今
~東北有数の豪雪地として知られ、「1~3月の積雪量は多い年で3メートルに迫る」(町総務課)。近くに食料品や雑貨を売る店のない集落も多く、週に2回、移動販売車が巡ってくる。絵に描いたような過疎の風景だ。
2005年、平成の大合併で消滅した沢内村だが、半世紀ほど前、その名を全国にとどろかせたことがある。1960(昭和35)年12月、高齢者の医療費無料化を実施したのだ。~
秋田県に接する岩手県西和賀町を南北に貫く県道1号は、いまも盛岡に通じる幹線道路だ。その昔、南部藩の隠し田と呼ばれ、冬の雪深さは「天牢雪獄(てんろうせつごく)」と評された沢内から盛岡に向かうには、難所の山伏峠越えが必要だったが、現在は長さ1.2キロの山伏トンネルが開通している~”(朝日新聞デジタル みちのものがたり 2015年12月12日)
今回は“医療費無料化”で名を馳せた沢内村に取材した≪みちのものがたり≫だが、“岩手県道1号〈盛岡・横手線〉”で思い出したのは、宮沢賢治の≪秋田街道≫だった。
“「秋田街道」は賢治が盛岡高等農林に在学中の大正六年七月七日、同人雑誌アザリアの第一回小集会の終わった後、保阪嘉内、小菅健吉、河本義行の三人と、夜十二時を過ぎてから秋田街道を経由して春木場(盛岡高等農林学校の実習地があり、彼らにはなじみの場所であった)まで歩いた(保阪はこれを「馬鹿旅行」と名付けている)時の経験を、心象スケッチ風に描いたものである。伊藤眞一郎によれば初校の執筆は大正九年九月、現存草稿の執筆は大正十一年とされている(『宮沢賢治必携』・昭和五五年五月・学燈社)。
榊昌子はまた「秋田街道」を賢治の歌稿と比較対照した結果、過去数回の経験および、それに基づく短歌数首をまとめたものであることを論証し、「秋田街道」という作品自体も後の作品と関わる可能性があることを指摘している(「秋田街道の成立について」・『秋田風土文学10』・平成十年十一月)。”
この時の“秋田街道”は、盛岡から小岩井農場、七つ森、雫石と進んでいくから、西向きだ。現在の国道46号(岩手県盛岡市から秋田県秋田市へ至る一般国道)とすると、更に進めば、秋田県鹿角市を通る。
グーグル地図では、国道104号(青森県八戸市から秋田県大館市に至る一般国道)に秋田街道の名が付されている。これも鹿角に通じるが、前者に比べると、言わば北路(ほくろ)に当たる。
今回の記事の県道1号〈盛岡・横手線〉は、盛岡から南に下りていく、言わば南路(なんろ)か。さすれば、賢治の“秋田街道”は、中路(ちゅうろ)か?