もう8年半も前のことだが、“ロシアに漂流した大黒屋光太夫は、’ソフィアの歌’を日本に齎しました。では、アメリカに漂流(?)したジョン万次郎は?答:’ABCの歌’。”と記した(これも葉桜 2007/5/4(金))。
その3年後、“今日6.26付けA新聞の土曜特集「うたの旅人」は、アメリカ民謡「おお!スザンナ」の巻。歌そのものより、これを日本に伝えたジョン・万次郎に焦点が合わされている。~万次郎は、フォーティナイナーにはなったが、「愛しのクレメンタイン Oh My Darling Clementine」を聞く前に西部を離れたのだろうか。”とも(おお!スザンナ~男の世界~日本人初2010/6/26(土))。
ロシア帰りの大黒屋光太夫とアメリカ帰りのジョン・万次郎のご両人が彼の地からもたらした歌に興味を持って記述したものだが、アメリカ帰りと言えば、ずばり“アメリカ彦蔵”こと浜田彦蔵もいる。彦蔵はどんな歌を持ち帰ったのだろうかと、興味津々なのだが、判らない。
歌では対比できない光太夫と彦蔵について、見るともなしに資料を見ていて、(当管理人的に)面白いことに気が付いた。
“光太夫は船員15名と紀州藩から立会いとして派遣された農民1名とともに神昌丸で紀州藩の囲米を積み、伊勢国白子の浦から江戸へ向かい出航するが、駿河沖付近で暴風にあい漂流する(ウィキペディア)。”これによれば、光太夫の一行は17名だった(1782(天明2)年12月)。
一方、彦蔵については“十三 摂津・栄力丸 (嘉永三年[一八五一]十月、紀州熊野浦の沖において漂流し、十七名ちゅう十一名が帰国)(北米・ハワイ漂流奇談 (その二・完)宮永 孝)”ということで、やはり一行17名であった(1850(嘉永3)年10月)。
もっと早い時期に、こんな事例も:
“1739 元文4年 江戸堀江町宮本全八船 ~ 17人は、先に父島までながされ、そこから伝馬船で北上し、水や食料を探しに鳥島に上陸した。5月1日、20年前の新居漂民を伴い、伝馬舟に乗り八丈島に到着(江戸時代 鳥島漂流史 http://mungero.net/shiryo/torishima.html)”
数ある漂流事例の中から、偶々人数が17名の3件を引っ張り出したに過ぎないのだが、数字マニアとしては十分に面白い。