昨日の投稿に取り上げた兼常清佐氏については全く存じ上げなかったので、ネット検索したところ、やはり、それなりのお方であることが判った。青空文庫によると次の通り:
“生没:1885-11-22~1957-04-25。音楽学者、音楽評論家。京都帝国大学文学部心理学科を卒業。同大学院で、日本の古典音楽を研究するかたわら、音楽心理学を学ぶ。民謡採譜にも取り組む。1915(大正4)年、東京音楽学校ピアノ科に入学。1922(大正11)年から2年間、ドイツに留学。
最も愛する楽器というピアノに関し、自らが行った音響実験の結果をもとに、「パデレウスキーが叩いても、猫が上を歩いても、同じ鍵盤からは同じ音しか出ない。」と、タッチの技巧の存在を否定。演奏家の名人芸に対する、情緒的で過度な称揚に異を唱えた。”
兼常清佐の名は知らなかったが、「パデレウスキーが叩いても、猫が上を歩いても、同じ鍵盤からは同じ音しか出ない」という説は聞き覚えがあった。「音楽界の迷信」(「中央公論」1935(昭和10)年1月号)で開陳したのだそうだ。
「音楽の話と唱歌集(上級用)」からも有用な知識を得られた。当管理人は、音楽に関しては、小学上級生相当のレベルのようだ。
「音楽家の話」の項で個別に取り上げる最初の大作曲家は、ヘンデルである。彼の作品の
“一番世俗的に有名なものは、宗教音楽の「メシアス」である。その中の「ハレルヤの大合唱」は~ヘンデルが死る八日前に、ロンドンで演奏された。その時の皇帝、ジョーヂ二世は、そのハレルヤの合唱の所になると、起立してそれを聞かれたとの事である。それが例になってイギリスやアメリカでは、今でもハレルヤの曲は起立して聞く様である。ハレルヤの合唱ならば、起立して聞かされてもさう恥かしくないであらう。”
ハレルヤを起立して聞く慣例など無いというのが最近の定説である(異論もある)。兼常先生は、何に基づいて起立説を紹介したのだろう。