今朝突然気が付いて≪公共哲学カフェ in 本郷~文京区民×東大生の「共働」の在り方~≫なる催しに参加を申し込んだ。今日の夕方に開催されるものだから、間に合わないかも知れないが一応Eメールを送り、返信の無いまま会場に出向いた。案の定Eメールには気付いて貰えなかったようだが、参加歓迎とのことであった。
“哲学”にはたじろぐけれども、“文京区民×東大生の「共働」”に誘惑された。我が愛唱会の切実な“持続可能性”問題の解決に繋がる可能性があると思ったのだ。
爺婆合唱団の団員確保というだけの狙いでは相手にされないことは自明である。錦の御旗は、≪文京区ゆかりの歌≫の発掘・普及である。文京区の文化遺産を死蔵するのではなく、実生活に取り込もうとの壮大なる狙いがあると人々を納得させられればよい。
単に歌を楽しむだけの趣味に留まらない、地域の文化振興に意義のある活動として、広く東大生に対する情報発信のチャンスがあればと期待して(下心を持って)出掛けたのであった。
しかし、主催者あるいは講師の最終的な狙いは、地域レベルの「共働」が政治を動かすこと、あるいは、動かす力になり得ると認識して貰うことにあったようだ。やはり高級な問題意識に発するものであって、個々の具体的な、特殊な課題の解決策を議論しようという意図は無かったようだ。それは当然とも言える。ここの無数の問題を議論する時間など無いのだから。
という訳で“地域協働の公共哲学”論議に加わっただけで終わっては、余りにも空しい。勇を鼓して我が個人的な下心を披歴し、少しはガス抜きをした。同席の人達は熱心に聞いてくれた。思いがけず、映画つくりをしているというグループの代表者の方に紹介されたので、これ幸いと挿入歌の演奏に使って貰えれば幸いとお伝えした。
そう事が上手く運ぶとは思わないが、このような成り行きもあり得るのだから、いろいろな場に顔を出すことは意味がある。“風前の灯の愛唱会”ではなく、“地域文化の振興”という壮大な意識を持とう。裏返せば、誇大妄想?