「線路は続くよどこまでも」のタイトルで知られるアメリカ民謡「線路の仕事」( I'vebeen working on the railroad)を独自訳で歌ってから2年過ぎた(アメリカ民謡“線路の仕事”~ダイナ~機関士 2013/10/16(水))。「日本鉄道歌謡史2 戦後復興~東日本大震災」(2015/10/4(日))に「線路の仕事」が一項目置かれている。
アメリカの鉄道建設時代の線路工夫の歌が、日本では子供たちの楽しい旅の歌に変身したというお決まりの説明に続けて、日本における昔の鉄道工事の過酷さにページを割いている。
そこで引用されている小池喜孝「常紋トンネル」は読んだことが無いが、“北海道鉄道建設史における極限的な労働の一断面を掘り起こした労作である”という。
“常呂郡と紋別郡の郡境にある常紋トンネル(507m)は1912年から1914年に施工され、数多くのタコ(監禁同様の暴力的監視下で酷使された肉体労働者)が使われ、命を落とした者百数十人とも4百人近いとも言われる。犠牲となった労働者の亡霊話が伝わる。
トンネルの側壁から立ったまま埋められた人骨が発見されている。弱ったタコを生き埋めにしたという。狩勝トンネルの工事現場でも「ずい分線路の下に死体が埋めてある」という話が伝えられていたそうだ。
こうした生き地獄からの逃亡を企てた者は多く、捕まると恐ろしい制裁が科せられた。戦前の北海道では、子どもを戒めるために「タコに売るぞ」「タコになるぞ」と脅したという。タコに同情する人もいたが、逆に悪の根源のように差別視する者が多かった。”
タコ部屋なる表現は当管理人も記憶しているが、具体的に常紋トンネルの生き地獄について見聞きしたことは無かった。事実はどうなのか。
ウィキペディアによれば、“1980年(昭和55年)、当時の留辺蘂町(現在は広域合併により北見市に編入)によって金華駅西方の高台(金華小学校跡地)に「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」が建てられた。”
この公的な碑文によっても、殉難者は“百数十名以上と伝えられています”という程度で、結局は、精確なことは永遠の闇に葬られたようだ。