東京市歌に関連して参照した三浦俊三郎・著(日東書院, 1931)「本邦洋楽変遷史」(東京市歌~セノオ音楽出版社~四部合唱 2015/9/4(金))に、市歌とは別に気になる記述があった。彼の有名な「鉄道唱歌」についてである:
“この歌曲は作曲上から見ても新味があって、この曲によつて当時青少年の俗謡試唱の傾向から救済したとまで言はれてゐる名唱歌である。只其原曲はと遡って調べて見ると、八分と十六分音符の結合のみでピョンピョコ(繰り返し記号)して居て歌ひにくいものであるが、それが不知不識の間に歌ひ易く修正され歌はれてゐるのである。
この洗練された旋律の美的価値に於ては優秀作品とも言へよう。津々浦々に至る迄も謡はれ今も猶、かなりの若々しさを以て我々に対して居る処は決して偶然な事ではなく、作者が微細な点に対する注意の生んだ賜である。近年新に鉄道唱歌が出来ても新味なく、従来のものに優る処を認められないのが遺憾である。”
“俗謡試唱の傾向”とはいかなる意味か理解できないが、“好ましからざる傾向”を指していることは文脈上明らかである。つまり、「鉄道唱歌」を褒めている。しかし、その原曲は“八分と十六分音符の結合のみでピョンピョコ~~~歌ひにくいもの”と、あまり感心していない。つまり、当時一般に歌われていたのは、(作曲されたままの)原曲ではなく、(人々によって)無意識のうちに歌い易く修正されたものだったというわけだ。
“この洗練された旋律”とは、文脈上、“歌い易く修正されたもの”を指していると見ざるを得ない。しかるに、その優秀にして遍く愛唱される所以は、偶然ではなく、“作者が微細な点に対する注意”であると言う。
ここに至って当管理人の貧脳は恐慌を来すのである。上記引用中、前半部では原曲を低く見、後半部では作者の技量を高く評価していることに矛盾を覚えるからだ。この矛盾を避けるには、原曲のある部分は低く、他のある部分は高く、それぞれ評価しているものと考えなければならない。
それとも、“歌い易く修正され~この洗練された旋律”が生れたのは、そもそも“(原曲に)作者が微細な点に対する注意”があったからだと読めばよいのか。“原曲”や“修正”の中身が厳密に特定されていないことも曖昧さを生んでいる。
上げたり下げたりの記述ぶりには混乱させられるのだが、とにかく、全体としては(元祖)鉄道唱歌を高く評価していることに変わりは無い。
混乱させられる原因がもう一つある。本書「本邦洋楽変遷史」に掲載された「鉄道唱歌」楽譜が、原本に見る楽譜と微妙に異なるのだ。原本の複写を掲載しているわけではないから、ミスプリの可能性もあり、益々ややこしくなる。