「星の王子さま」著訳者・内藤濯が音楽にも親しんでおり、造詣が深かったことは、その伝記「星の王子の影とかたちと」に詳しい。
彼が先の戦争中、郷里・熊本県に講演旅行した際に、人吉温泉の宿で川下りの船から流れてくる哀愁の唄声に惹かれた。仲居から、それは五木部落に伝わる子守唄であると聞いた。
翌日、熊本女子師範学校での講演でこのことを話したところ、音楽教師が同曲の採譜を有していることを知らされ、歌詞と共に譲り受けた。戦後十年ほどして、NHKの放送でこの子守唄をつかったところ世に広まった、と伝記に記されている。
内藤が晩年に画家・向井潤吉の「たたき」の宴でこの子守唄を歌うのを古関裕而が採譜して広めたとの話もあると、やはり伝記に記されている。
つまり、「五木の子守唄」が世に広まったことについては、内藤濯が深く係わっているように書かれている。しかし、ウィキペディア等によれば、“戦後十年ほど”するよりも早くNHKで放送されて世に広まったらしいから、内藤の行為とは直接の関係は無いと考えるべきだろう。
ただし、内藤が上記熊本講演旅行から帰京後、学徒出陣(壮行会)の前日(1948.10.20)、勤務先の東京商大で、「五木の子守唄」でゼミナールの学生を送ろうとしたとの証言があるそうだ。実際に歌ったのか否か、この記述では不明だが、もし歌ったのであれば、初演とは言わないまでも、東京における最も早い時期の「五木の子守唄」歌唱であるかも知れない。