石川啄木「一握の砂」に次の短歌がある。
あめつちに
わが悲しみと月光と
あまねき秋の夜となれりけり
あめつちとは、辞書には【天地】天と地、全世界、などとある。漢字で書けば、普通は“てんち”と読むだろう。これを前後逆に「地天」と書かれたものを初めて目にした。「地天老人一代記」という本のタイトルにある。ふざけた造語かと思ったが、念のために検索すると、立派な名詞だった。“ちてん”ではなく“じてん”と発音するようだ。
《(梵)P thivの訳》もとは、大地をつかさどるインドの女神で、仏教の護教神となったもの。十二天の一。釈迦(しゃか)の成道(じょうどう)の時、地中から出現してその証人となったとされる。堅牢地神。
要するに大地の神なのだろう。とすると、「地天老人一代記」の主人公は、己を神に準えたのだろうか。本書の副題は「木村泰治自叙伝」(著者:遠藤正雄. 出版者:岳温泉㈱. 出版年: 1960)である。その辺の詮索はさて置き、本書に目を向けさせたのは、またまた中村健之介/著「ニコライ 価値があるのは、他を憐れむ心だけだ」である。
ロシア正教布教のために来日した青年ニコライに函館で日本語だけでなく広く日本文化の知識を授けた木村謙斎という人物がいた。
秋田・大館城の城代・佐竹氏の御側医師で、北方警備に駆り出された藩兵と共に軍医として蝦夷地に赴任した縁で、函館で開業し、傍ら私塾を開いて意欲のある者に漢学などを教えた。
そこへニコライが現れて日本語を教わることになった。謙斎は教養豊かな知識人だったようで、ニコライは後々まで彼を慕ったそうである。
因みに、謙斎が帰郷した後にニコライの日本語教師役を務めたのが、最近頓に関心を呼んでいる新島襄であった。謙斎と違って新島はニコライから見ると弟分となり、いろいろと面倒を見て貰ったらしい。
しかし、新島はアメリカへの密航と彼の地での勉学を果たし、十年後に帰国してからは、ニコライを避けていたらしいという。ロシア正教でなくプロテスタントの道に入ったため、気まずかったのかも知れない。表面的には、恩知らずの態度を取ったと思われても仕方が無い。
さて、本題の「地天老人」であるが、本名は副題にある通り「木村泰治」であり、謙斎の息子である。謙斎は地方名士で終わったが、泰治は大物に育った。
ジャーナリストから実業家に転進し、特に台湾と福島県に足跡を残したようである。台湾では多数の企業を興し、財界のまとめ役になり、台湾銀行の危機を救い、福島県では、これまた危機に瀕していた岳温泉に厖大な私財を投じて発展させるなどしたそうだ。
その泰治について、中村健之介氏は、“台湾銀行頭取”も務めたように書いているが、インタネット検索では確認できなかった。いずれ機会が有ったら「地天老人一代記」に当たってみよう。
なお、泰治の生没について、[1872年~1961年]と[明治三年~昭和三十八年]すなわち[1870年~1963年]との二通りの資料がある。