先月、アッツ島に関連して、“アッツ島を連想させる~理由は、我が叔父が先の大戦中に軍医として赴任していたアッツ島でいわゆる玉砕の巻き添えとなったからだ”と書いた(アッツザクラ~藤田嗣治~アッツ桜 2015/6/21(日))。同じようにアッツ島で玉砕した軍医の記録が出版されていることを知り、図書館から借りて読んだ:
杉山正己/著「さよなら、また会う時まで 辰口信夫からの贈りもの」(杉山書店 2004年05月)“本日午後8時、地区隊本部前に集合。野戦病院も参加。最後の突撃決行。病院の患者全員に自決命じられ、私はわずか33年の命をここで終えることになる。何ら悔いなし…。青年医師の日記に秘められた感動のドキュメント。【「TRC MARC」の商品解説】”
主人公・辰口信夫はクリスチャンで、アメリカのキリスト教系医科大学を卒業し、医業に従事して帰国した後、徴兵で日本軍の軍医(厳密には軍医の位は未だ得ておらず、見習士官であったという)となった。アッツ島で米兵に射殺され、所持していた手記が米軍に渡り、英訳が広く読まれたという。
上掲書では、彼の手記のほか、妻との文通、友人知人の証言などを駆使して、彼の人物像、戦争に巻き込まれていく過程、玉砕に至る悲惨な逃避行を描く。その中に、アッツ島勤務となる軍医たち28名の記念写真があった。また、米軍の上陸作戦直前に島を離れて運よく生き延びた歯科医の記憶する軍医たちの名前も記載されていた。
大浦軍医大尉、山本同、矢野軍医中尉、柴田同、広瀬同、福永同、
渡辺軍医少尉、網塚同、晴山同、幸田同、大村同、、、、
ひょっとして、我が叔父がそこに登場してはいないかと注意深く読んだが、その名は見当たらなかった。叔父は辰口より若年だが、軍医少尉に任官し、玉砕後大尉に特進したと聞いている。小さな島に十数名の軍医仲間だから、同書に叔父の名前があってもおかしくないと踏んだのだが、、、。軍医たちの集合写真(アリューシャンへの出発地・小樽で、1942年11月8日)も、顔が判別できるほど鮮明ではない。
辰口は負傷兵の手当てをしていて、米兵に発見され、英語で敵意の無い旨叫んだが、砲弾の炸裂音などに掻き消されて米兵に届かず、射殺されたように書かれている。誰が聞き、あるいは、見ていたのだろう。
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偶然、アッツ島関連のニュースがあった:
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アッツ島迫る「玉砕」…米軍上陸直前の写真残る
太平洋戦争で1943年(昭和18年)5月、日本軍が「玉砕」したアッツ島(米アリューシャン列島)の米軍上陸直前の様子を撮影した写真が残っていた。
戦闘が始まる前に日本に帰還した元大尉の遺族が保管していた。~~~ 写真には日本の守備隊の姿が写っており、この遺族は「多くの関係者に見てもらいたい」と話している。
写真は、~~~ 雪に覆われた島内を視察する守備隊長の山崎保代(やすよ)大佐や、空襲などを受けて損壊した兵舎を片づける兵士らの姿が写った約70枚が貼りつけられている。
開戦後、快進撃を続けた日本軍は42年6月、米軍の北方からの反撃を防ぐため、アッツ島を占領。約2600人を配備した。米軍は43年5月12日、1万人以上の兵力で上陸を開始。任務を終えた~さんは、その8日前に潜水艦で島を離れた。
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見捨てられた形となった山崎大佐ら残った約150人は5月29日、「機密書類全部焼却 之(これ)ニテ無線機破壊処分ス」の電報を最後に突撃、ほぼ全滅した。約2600人いた兵士のうち、捕虜になって生き残ったのは27人だったとされる。~~~
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◆アッツ島=北極に近いベーリング海に面する南北約30キロ、東西約70キロの小島。米アラスカ州に属するが、今は誰も住んでいない。第2次大戦中、北米で唯一の地上戦が行われたことなどを理由に1985年、米国の歴史遺産に指定された。厚生労働省によると、遺骨はこれまで約320人分が収集されている。
最終更新:7月11日(土)20時48分”