草花のアッツザクラを初めて見たのはここ二十年以内の事と記憶する。特段変哲も無いこの花を一度で覚えたのは、アッツ島を連想させるからだ。更にその理由は、我が叔父が先の大戦中に軍医と
叔父玉砕の話は子供の頃から耳にしており、アッツ島と聞けば条件反射的に神経が高ぶる癖が付いている。書評欄などでアッツ島関連の書名を目にすると、大概は図書館から借りて読んできた。近くは、平山周吉「戦争画リターンズ 藤田嗣治とアッツ島の花々」(芸術新聞社 2015.4.20)を手にしたが、殆ど読む時間が無かった。
ただ、アッツザクラに関する短い記述だけはメモしておいた。同書によれば、日本軍によるアッツ島占領に従軍したカメラマン杉山吉良は、「アリューシャン戦記」(1943.6.20)の中で、次のように書いている:
“桜草のような葉に、ピンク色をした桜に似た小さな花をつける名も知れぬ花を、私達はアッツ桜と呼んだ。”
また、同じく杉山吉良「北限の花 アッツ島再訪」(文化出版局 1979.9)の索引には
“アッツ桜 サクラソウSP(アッツザクラ)、サクラソウ科、5~20cm、東部シベリアなど極地から寒帯に分布”と記載されていると言う。
これらの記述からは、アッツザクラは杉山吉良らが命名したものと読める。
ところが、ウィキペディアによれば、“アッツザクラはキンバイザサ科に属する植物の一種。別名ロードヒポキシス。クロンキスト体系ではユリ科に含められていた。原産地は南アフリカ共和国のドラケンスバーグ山脈周辺の高原で、アッツ島ではない”のである。
日本軍がアッツ島で“発見”したアッツ桜は、現今のアッツザクラとは別物なのか。