朝日新聞本日16日付け夕刊p.5に、ウィーン・フィルコンサートマスターのライナー・キュッヒル氏へのインタビュー記事が載っている。全10回連載の≪人生の贈りもの わたしの半生≫のうち第7回で、見出しは“聴衆ではなく観衆「音楽の都」も変化”となっている。
“オーストリアに生まれ育ったからといって、必ずしもウィーン・フィルを知っていたり、クラシック音楽を聴いていたりするわけではありません。クラシックに高い関心のある人は、おそらく3分の1に満たないのではないでしょうか。自分たちを過大評価してはいけません。
(ウィーンは)音楽を学ぶにはいいところです。いろんな演奏会があり、オペラもたくさん上演されているので、ぜひ聴いてほしいですね。ただ、最近の演奏会に足を運んでくれる人たちの多くは、聴衆ではなく観衆になっているようで残念です。昔のみなさんの方が、よく聴いていた。
(チラシやパンフレットの写真を見比べると~)昔は、たとえばカルテットなら座って弾いている写真が使われていた。ところがいまは、弓を振り上げている場面といった見た目にインパクトのある写真です。視覚の要素が重要視されているのです。音には何の関係もないことなんですけどね。
照明も音響も衣装も、何でもかんでも派手になっている。どうやら、人々が求めているのはそういうもののようです。歌手が1人で舞台に立ち、ピアノの伴奏ですばらしい歌曲を歌う夕べは、「おもしろくない」と言われてしまう。芸術という観点からすると、そういう演奏会こそが大切なのに。”
世間におもねらない率直な発言だ。
ソリストの過度なアクションや表情はいつごろから目立つようになったのか、知る由もないが、TVの普及がこの傾向を助長したのではなかろうか。“視られている”という意識があれば、“格好よく見せたい”と思うのは誰しも同じだ。本来の鑑賞対象である「音」を引き立てる視覚効果が有れば良いが、過ぎたるは及ばざるが如し、だ。
では、オペラはどう理解すればよいのか、と自問する羽目になった。これはもともと“見世物”なのだ。「音」を楽しむコンサートとは別次元の芸術と心得ればよい。
合唱コンクールでも演出が派手になっている。これは積極的に評価されているようだ。出演側も結構それを楽しんでいるらしい。やはり、「音」だけでなく、アクション、視覚も始めから計算に入れている。広い意味の総合芸術ということか。
演奏者、鑑賞者それぞれの価値判断にゆだねられる問題であるという結論に落ち着く。
そこで冒頭のキュッヒル氏に帰れば、彼は伝統的な、正統派の、古風な音楽家ということになるのだろう。“演奏会に足を運んでくれる人たちの多くは、聴衆ではなく観衆になっているよう”だと残念がる気持ちは尤もだが、世の中の趨勢を受け入れるしかないだろう、と、これは自戒として肝に銘じておこう。