もう一つ、北国の《さくらの会》の病院ロビーコンサートの演目で歌詞の気になるのが「ラ・ノヴィア」だ。流布する歌詞は大体次のようだ:
白く輝く 花嫁衣裳に 心を隠した 美しいその姿
その目に溢れる 一筋の涙を 私は知っている
祭壇の前に立ち 偽りの愛を誓い 十字架に口づけして 神の許しを願う
アヴェ・マリア アヴェ・マリア アヴェ・マリア アヴェ・マリア
大意は、結婚式において、心ならずも偽りの愛を誓う美しい花嫁がひっそりと一筋の涙を流すのを私は知っていると言ったところだろう。
気になるのは、“目に溢れる 一筋の涙”だ。“私は知っている”つまり“他人は気付かない”程度にひっそりと流す“一筋の涙”だから、流れ続けるのでなく、一度きりの微かな涙だろう。
その、ひっそりと微かな涙を“溢れる”と表現することに違和感がある。一粒でも溢れることはあるから、間違いではないが、常識的な語感にはそぐわない表現だと思う。“目に溢れる”と来れば、涙が一杯溜っている、そして流れ出す様相を思い浮かべるのが普通ではないか。
ところで、“一筋の涙を 知っている”「私」とは誰か。“祭壇の前に立ち~~神の許しを願う”花嫁その人でないことは確かだろうが、誰だか解らない。
ウィキペディアによれば、「ラ・ノヴィア」(LaNovia) は、チリの音楽家ホワキン・プリエートが1958年に作詞作曲し、イタリアの歌手トニー・ダララや、日本の歌手ペギー葉山らがカバーし(日本語にはあらかわひろしが翻訳)、世界中でヒットした。
その原歌詞(スペイン語)を掲載しているサイトがあったので、無料機械翻訳に掛けてみた。すると、泣いたのは花婿で、しかも心の中で泣いたことになっている。“十字架に口づけして 神の許しを願う”のも花婿となっている。
また、「私」とは、“偽りの愛を誓う”人(恐らくは花婿)が本当に望んだ相手(つまり女性)であるように読める。そうだとすると、“花嫁が失望して死ぬ”と読める機械翻訳文と辻褄が合う。
これでは歌の印象がまるきり異なる。ウェットな日本人向けに翻案したのだろうか。それとも、機械翻訳の精度が悪いだけの事か。
ということで、念の為、“La Novia”の英訳を載せている英語サイトを捜してみたところ、日本語歌詞の方に軍配が上がった。「私」とは、彼女が本当に愛した男ということになっている。機械翻訳がデタラメだったのだ。ああ疲れた。