図書館から「雅歌古代イスラエルの恋愛詩」(秋吉輝雄/訳 池澤夏樹/編 教文館 2012.3)を借りて読んだ。何故我が趣味の埒外にあるような本書をリクエストしたか必死に思い出したところ、東大生協「ほん」第390号(恋~国語辞典~欲求不満 2015/4/5(日) )で誰かが推奨していたのだった。
雅歌(がか)とは、一般には旧約聖書の中の一書を指し、男女の愛を歌う(大辞林第三版)とか、神とイスラエル民族、キリストと教会との間の愛の関係を歌ったもの(デジタル大辞泉)と言われる。実態は前者の通りだが、神聖な聖書には似合わないと、後者の説明が公式には採用されているらしい。
この齢になる迄、そのようなことは全く知らなかったので、非常に面白く読ませて貰った。“男女の愛を歌う”とは言っても、聖書に採り入れるほどだから、その表現振りは甚だ婉曲である。直接的な記述ではなく、比喩に頼っている。従って、予備知識無しで読んだのでは、全然面白くない。脈絡の無い散文詩としか見えない。「茨の中の百合」とか「森の中の杏の木」が何かの比喩であると直感できる人はどれ位いるだろうか。
公定訳の聖書では更に衣を着せられた表現になっているのだろうから、それが何故聖書の一部なのか直ちには解らないのではないか。いつか確認してみよう。
という訳で、本文(雅歌すなわち散文詩)よりも、訳者および編者による解説から多くを教えられた。
“名君であるはずのダビデは部下ウリヤの妻バト・シェバに恋をして、彼女を妊娠させた上で夫を戦地に遣って戦死させ彼女を娶る(やがてこの二人からソロモンが生れた)”(池澤)との記述は驚きだ。“ソロモンはイスラエル史上もっとも知られた名君”だそうだ。
訳者(秋吉)のあとがきは、“春、今年もまた復活祭に近く、遠くイスラエルの過越しの祭には、雅歌が親しく歌われるであろう。 一九七二年 初春”と結ばれている。過越しの祭り「ペサハ」は、今年は4/4-11だったそうだ(http://myrtos.co.jp/info/judaism03.php#Q12)。不思議なタイミングで読んだものだ。
蛇足:雅歌の大胆さに比し、古代日本の性愛の詩は、日本書紀の「小林に我を引き入れてせし人の 面も知らず家も知らず」くらいしか思い浮かばない(池澤)とか。