志村先生は歌舞伎にもご興味をお持ちだったようで、松本幸四郎がTVで、「六方を踏む」ことを説明する際の「六方」のアクセントに注意する。「方」にアクセントがあると言う。「三宝」、「四方」と同様に後ろにアクセントがあると仰る。
ところが、その番組で幸四郎の相手をするTV局側の人が、「六」にアクセントを置いていたと呆れている。幸四郎の発音を何回聞いても変わらず、相手から学ぶ意識が無いと結論する。
この「六方」は、北原白秋/前田武彦《柳河風俗詩》の「梅雨の晴れ間」に出てくる「六法」と同じだ。
“廻せ、廻せ、水ぐるま、 はやも午から忠信が紅隈とつたしやつ面に
足どりかろく、手もかろく、 狐六法踏みゆかむ花道の下、水ぐるま、、、、、、”
この部分の歌い方としては、“六法”と、「六」にアクセントが来るようになっている。志村先生が拘る幸四郎流アクセントには馴染まないメロディーなのだ。
この件に関しては、当管理人は必ずしも志村先生の所論に敬服するものではない。日本語のアクセントは、英語のように辞書で明確に表示できないと考えている。地方ごと、個人ごとにそれぞれの体系が有り、どれが標準であるとは一概に決められないと考える。(アクセントの違いを除き)同音異義語が多いのだが、その区別は文脈による習慣があるため、特に混乱は起きない。
三木露風/山田耕筰「赤とんぼ」のメロディーが“あかとんぼ”という(日本語の)アクセントに合わせられているという説は有名だが、たまたま耕筰が個人的に馴染んだアクセントであったに過ぎないと思う。
ところが、最近、次のようなご高説を拝見した:
“アクセントと感情 中村明 2015年2月7日03時30分 朝日新聞
「端」と「箸」と「橋」はアクセントが違うから、会話で聞けば区別がつく。「柿」と「牡蠣(かき)」も迷わない。名曲「赤とんぼ」は当時のアクセントがメロディーに反映しているという。日本語の高低アクセントは、地方で異なるだけでなく、時代で変化する。
「映画」「電車」「自転車」「事務所」など日常よく使われる語は、長い間に次第に平板型のアクセントが優勢になってきた。が、頭高の「美人」「音楽」「語彙(ごい)」「比喩」に平板アクセントが目立つようになったのは、長い間の自然な変化だけでなく時代の波をかぶったせいもある。
「バイク」「スタンバイ」「プロデューサー」「ショップ」など舶来の語を中心に、今や平板化の嵐が猛威をふるう。頭高どうしの「ドクター」と「コース」も、「ドクターコース」という一語になると、前の「ドクター」が平板になる。近年「いい感じ」「早くない?」など、前の語を平板にした全体で一語のような発音が耳につく。小津安二郎監督の映画で原節子が「いい天気」を、感情豊かにそんな言い方をしたような記憶がある。現代人は早口になったうえに、やたら感情的に話す癖がついたのかしらん? そっちのほうが気になる。 (早稲田大名誉教授)”
中村先生のご専門が日本語関係なのかどうか存じ上げないが、畏れ多いお肩書きだから、些か怯んでしまう。“「端」と「箸」と「橋」はアクセントが違う”とは昔からよく聞く説だが、一度も納得したことは無い。「柿」と「牡蠣(かき)」のアクセントの区別も気にした事は無い。面白いことに、頭高アクセントと例示された4語のうち、当方が一致しないのは「美人」だけで、あとはお説の通りに発音している。
日本語学会では、アクセントに関して、統一見解などあるのだろうか。