志村先生の筆調に魅せられて「記憶の切繪図 七十五年の回想」(筑摩書房 2008.6)も読むことにした。こちらは言わば自叙伝である。数学的な記述は無い。他人にはどうでもよい父祖などの話もあるが、全体に得るところのある好著である。
ご本人も書いているように、その時代には当たり前すぎて誰も書かないことがあり、そのうち誰も知らなくなる歴史的事実は多いと思われる。その中で先生が大切と判断したことを書いており、これは有難い。
数学しかできない人ではなく、幅広い教養のある先生で、音楽にも詳しいことが読み取れる。音楽の周縁部に位置づけられる能楽もお好きだったようで、上掲書のどこかに“巣鴨の能楽堂に行って楽しんだ”ようなことが書かれていたと思う。
巣鴨には平均以上の馴染みが有ると自認する当管理人も、“巣鴨の能楽堂”には心当たりが無かった。直ぐに思いつくのは、水道橋の近くの能楽堂だ。先生は水道橋も巣鴨方面であるとの認識で大雑把に“巣鴨の能楽堂”と書いたのではないかと疑った。一方、この項目で“染井”という地名も付随的に浮かんできたので、“染井の能楽堂”と書かれていたのかも知れないと、今度は己のボケが気になった。
早速、ネット検索すると、“染井の能楽堂”が実在したことが判明した。安直にコピペさせて頂く:
“染井能舞台 そもそもは明治8年、旧加賀藩主、前田斉泰公の自邸に建てられた能舞台で「根岸能舞台」と呼ばれました。没後、舞台はほとんど使用されず放置されていました。大正8年、松平壽伯(本郷学園創設者)は、舞台の荒廃を惜しみ、ご母堂千代子さんの隠居所に活かしたいと譲り受け染井の地に移築しました。第二次大戦で東京の能舞台は被害を受け、残ったのはたったの4つ。その一つがわが染井能舞台です。染井は地の利も良く、昭和20年~30年頃までは、能再興の本拠地として全盛をきわめました。各流派の錚々たる方々が染井で舞ったそうです。戦後の能楽再興の殿堂として隆盛をきわめた染井能楽堂でしたが、昭和30年代に入って舞台は老巧化も激しく、昭和40年解体されました。部材は宝生能楽堂の倉庫に保管されていましたが昭和54年部材が横浜市に寄贈され、平成8年部材の大部分を使い横浜能楽堂としてオープンしました。根岸能舞台、染井能舞台、横浜能舞台と名前を変え~” (本郷学園関連サイト)
引用中「宝生能楽堂」が我が知る“水道橋の能楽堂”である。解体保管となった昭和40年と言えば、ちょうど五十年前、当方は大学を卒業する筈の年であった。“水道橋の能楽堂”は知っていたが、“染井能舞台”は全く知らなかったわけで、上記引用で“昭和30年代に入って舞台は老巧化も激しく”と説明されていることで納得した。
その“染井能舞台”の在った場所だが、“松平邸”としか書かれていない。我が記憶を手繰っていくと、確かに染井の辺りに“松平邸”と思しき邸宅があったことに気付く。今でもあるのだろう。今度機会が有ったら現地確認しよう。