「飛鳥の木簡」から教わった歴史の知識がもう一つある。西紀(AD)701年は大宝元年なのだそうで、“これ以後、元号の使用が恒常化した”という。つまり、それより前は、元号が必ずしも制定されなかったらしい。こんなことは学校で教わった可能性もあるが、記憶には無かった。
それで、○○天皇××年という表記があることに納得がいく。昨日取り上げた草壁皇子の生没が、“天智天皇元年(662年)~持統天皇3年4月13日(689年5月7日)”と記されるように。歴史を読むには元号を避けて通れない訳だが、素人にとっては煩わしいことだ。
元号の煩雑さは、歴史の問題に限らない。今でも日常悩まされるところだ。西暦と元号年の二通りを覚えておき、いつでも即座に換算できるように脳みそを研ぎ澄ましておかねばならない。呆けの抑制には有効かと思われる。
役所関係の書類では元号が印刷されていることが殆どなので、元号の使用を言わば強制されるのが実情だ。明治・昭和・大正・平成に亘る期間計算を求められることは少なくないが、そんな時の煩わしさにはぞっとする。
逆に、元号使用のメリットは何だろうか。天皇制を人々の頭に刷り込む狙いを別とすれば、何も思いつかない。歴史上特徴のある期間を表現するのに便利な場合が在るかも知れないが、元号の使用を積極的に正当化するほどの価値があるとは考えられない。
ところで、元号恒常化元年の西紀(AD)701年(大宝元年)は、歴史の転換を象徴する幾つかの出来事でも特徴づけられると上掲書に述べられている。先ず形式的に、八世紀の始まりの年である。
久し振りに派遣される遣唐使が任命された。これは、朝鮮半島を含む大陸の政治情勢の展開を受けたものである。漢字の音読三通りの内の古韓音(中国の2,3世紀の音、上古(しょうこ)音)が急速に消滅して行ったことと同期する。つまり、漢字音が半島系から中国系へと移っていく過程でもある。
後の聖武天皇(~756)、光明皇后(~760)が生れた年である。