「琥珀のフーガ 永井幸次論考」にもう一つ、興味を惹く明治時代の楽界のひとこまが紹介されている。時は1898(明治31)年4月23日、東京音楽学校同声会春季音楽演奏会を島崎藤村が聴いており、「土曜日の音楽」と題して読売新聞(明治31年5月2日)に書いたと言う。
その第四部(唱歌)の項に、合唱出演者の氏名がパート毎に列記されていて、我々にも馴染みの歴史上の人物が登場する。
高音部(ソプラノ) 幸田幸
中音部(アルト) 永井幸次
次中音部(テノール) 瀧廉太郎、岡野貞一
永井幸次は鳥取時代、教会でボーイ・ソプラノをやっていたとかで、この演奏会の時は、弱体だったアルトに助勢したものだそうだ。幸田幸は同期生で、彼女の成績首席の座を奪おうと努力したが遂に及ばなかったとか。瀧と岡野が一緒に歌っていた、それを藤村が聴いていたとは。小説かドラマの素材にピッタリの情景だ。
藤村は明治30~31年、1年間音楽学校の選科に在籍した、ピアノを橘絲重に教わった、と「琥珀のフーガ 永井幸次論考」は記しているが、ウィキペディアによれば、1898(明治31)年4月に選科入学となっている。
それより前、藤村は仙台の東北女学院に作文と英語の教師として明治29年9月から1年足らずの間勤務した。その間の詩作が処女詩集「若菜集」に結実したらしい。藤村の仙台での住いは、三浦屋という素人下宿だった。
その下宿の15歳くらいの娘が仙台女学校に通っており、傍らヴァイオリンも自宅教授の先生について教わっていた。藤村はその娘からヴァイオリンを借りて楽しんだという。ちゃんと弾いたらしい。
藤村はまだ無名の青年教師に過ぎなかったので、三浦屋の人達も後年名を成した詩人がその人だとは知らなかったらしいが、ヴァイオリンを貸した娘さんが恐らく五十前で亡くなる時、息子さんの話から偶然にそのことを知り、何か納得顔だったという。
僅か1年足らず下宿住まいしていただけの青年教師を30年近くも経って死に際に克明に思い出したと聞くと、ついつい何かロマンティックな想像をしたくなる。手が早かったとか言われる藤村なら、下宿の年頃の娘に魅惑的な言葉を囁くぐらいのことはあったかも知れない。