今年最初の買物で紹介した《名作唱歌選集 故田村虎蔵先生記念會編修 音楽之友社 昭和25年9月15日発行》(2015/1/3(土))に端を発し、《丸山忠璋/著 田村虎蔵の生涯 音楽之友社 1998.7》を経て、《鎌谷静男/著 琥珀のフーガ 永井幸次論考、音楽之友社 1998.3.31》に至った。
明治から昭和にかけて、音楽教育や童謡・唱歌の作曲に活躍した田村虎蔵、永井幸次、岡野貞一の3人は、ほぼ同時期に鳥取県で生まれている。知名度は、岡野(ふるさと、春の小川 etc.)、田村(金太郎、一寸法師、 etc.)、永井(?)の順だろう。一般には殆ど無名の永井が戦後まで長生きした(1874~1965)。
永井の作品は聴いたことも歌ったことも無かったが、我が蒐集品の中に彼の名前があることは承知していたのと、田村・岡野の両人との関係などに興味が湧いたのとで、上記「琥珀のフーガ 永井幸次論考」を取り寄せた(図書貸借)次第だ。
同書の初めの方に面白い情報を見付けた(pp.58-59)。
永井は鳥取時代に“ドレミ唱法”(トニック・ソルファ法と言うらしい。)に親しんでいた。ところが、東京音楽学校では、小山作之助助教授から数字譜で“ひーふーみー”と歌わされて閉口した。堪りかねて、何故ドレミで歌わないのかと訊いた。小山曰く:
「日本はまだ数字譜の時代で、ドレミ唱法はずっと先の話です。メーソン教師はドレミ唱法を使うことを主張されたが、伊澤先生は頑として聞き入れず、ドレミ唱法の発音はむつかしいからと言って、トケミハソダチトの階名をこしらえられたのです。本科ではこの階名で歌うのですが、予科の間は数字譜で歌わねばならないことになっています。」
“伊澤の考案したトケミハソダチト階名とは、「堂軽美破壮惰馳堂」と漢字で書き、♯や♭はそのまま音を上げ下げして歌うものであった”そうだ。当時は前校長伊澤修二の威令が行き届き、その余光は未だ冷めていなかったのである、とのことだ。
以上の通りだとすると、予科の生徒は、“ひーふーみー”で歌わされ、本科に進むと“堂軽美破壮惰馳堂”に慣らされ、世に出ることになる。とばっちりを受けた人たちがかなりいたと想像される。西洋音楽の導入に尽くし、開明派の旗手の観のあったような伊澤だが、頑迷な一面も持ち合わせていたことが示されている。
しかし、レを軽、ラを惰としているのには感心する。同じラ行に収まるのを避けて、敢えてケ、ダとしたわけだ。当管理人はドレミ~を略記するのに英語に肖って DRMFSLTD とローマ字一字ずつを充てる。レ、ラはR、Lで自動的に区別される。
なお、本書によれば、小山も上記問答の2年後(明治27年)には数字譜唱法をトニック・ソルファ法に改めて教授するようになったということだ。