志村先生は、ヨーロッパ語だけでなく、中国語(古典語)の用法にも論及する。
例えば、現代日本語でも使われる“由らしむべし、知らしむべからず”の出典である論語:泰伯第八の原文(読み下し)“子曰く、民はこれに由らしむ可し、これを知らしむ可からず”の誤読を憂う。ここの“可”は、可能、不可能の可であって、強制や禁止の可ではないとのことである。
実際、昔から解説書にはその通り正しく説かれているのに、一般には“大衆には道理を教える必要は無い、従わせればよい”の意味に誤解されてきたのが不思議だ、と仰る。当方もその誤解組の一人だった。
唐詩などに出てくる“多少”は、“どれだけ、いかほど”の意味で、日本語での“多少”の使い方とは異なることに注意喚起される。これは、現代中国語において正にそうであって、入門編で教わることだ。古典語では、文脈から“沢山”の意味になることもあるようだ。
“表裏”は、“外側と内側”の意味であって、日本語での“表と裏”とはズレがあることにも注意される。尤も、日本語でも、“裏・裡”には、“うち”の意味の用法がある。“盛会裏に”“内裏”など。
関連で、コインの表と裏が、英語では HEAD と TAILになることを教えられる。
Steal(盗む)には、必ずしも悪くない意味(用法)もあるという文化論も面白い。英語では、“うまく手に入れる、人知れずこっそりモノにする”という意味だそうだ。
Steal a person’s heart 心を奪う(とりこにする)
Steal a kiss 唇を奪う
Steal a base 盗塁する
という具合に。アメリカでは物を盗むことへの罪悪感が薄いのではないかとお考えだ。それは、言語考察からではなく、街の商店での見聞からのご意見である。