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神秘の十和田湖~和井内貞行~実利の事業家

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時を遡ること五十数年の昔、人並みに修学旅行で東北・北海道方面に行った。夜行列車で一泊、降り立ったのは多分十和田湖の近くだったのだろう、歌を一つ覚えている。
 
“あまくだりしか みなわこりしか はたやいみじき くおんのみをか~~~”と言うような出だしで、メロディーもはっきりしている。歌われているのが湖畔に立つ乙女の像(高村光太郎作?)であることも忘れていない。こんな歌は現地で一度聞いて覚える筈が無いから、バスガイドさんが車内講習してくれたのかも知れない。
 
その十和田湖でもう一つ覚えているのは、和井内貞行という人名である。これは多分、小学校の教科書に載っていたのだと思う。ヒメマスの養殖を成功させた偉人として社会科で教わったに違いない。日本の近代化に貢献した明治時代の精励刻苦の人のイメージが浮かぶ。
 
その和井内貞行(1858-1922)について面白いエッセーを読んだので、メモしておこう:
 
《ワイナイ・アゲイン――あなたは和井内貞行という変人をご存じか   木村義志
 
和井内貞行は毛馬内村あたりで盛岡藩の重臣の家臣の嫡男として生まれた。地元の名門私塾の優等生で、16歳の時、小学校の補助教員に採用された。二十歳の時、十六歳の鎌田カツ子と結婚し、官営小坂鉱山に転職した。
 
床屋のお吉という美女に熱を上げている貞行を心配した家族が慌ててこの結婚話をまとめて、小坂に送り出したという話が地元に残る。三年後、小坂鉱山の支所である十和田鉱山の勤務となり、十和田湖畔に移った。
 
官営鉱山の職員は高給取りのエリートである。その貞行が、先行き保証の無い魚の放流ビジネスにのめり込んだのは、維新動乱で没落した旧体制に属する和井内家の新しい経済基盤と地位を確立するためであった。魚のいない神秘の湖に興味を持ったり、公共事業を興そうと思ったりしたのではない。
 
国(農商務省)もコイやマスなどの放流、養殖を奨励していた。十和田湖でも、先人が散発的、小規模に放流事業を営んでいた。貞行は機会を捉えては十和田湖での事業計画や経過を農商務省に吹聴したので、有力な研究者や技官が視察に訪れるようになった。
 
中央官庁とのパイプは貞行にとって大きな力となった。「十和田湖にこの人あり」と業界の有名人となった。漁業権の占有に成功するに当たっては、入植者や漁業者らとの紛争で反感も買い、強欲、狡猾な人物として嫌われた。
 
彼の伝記上有名なヒメマスだけでなく、コイもある程度獲れるようになっていた。彼はそのコイを「十和田鯉」のブランドで全国に売りさばく努力もした。また、鮮魚として売るには難しさも有るので、日持ちのする加工品の製造販売も考えた。各地の缶詰工場などを視察したが、実行には至らなかった。
 
ヒメマスの稚魚を 放流してから三年目、最初にコイを放流してから二十一年の1905(明治38)年の9月下旬、成長したヒメマスの群れが産卵のために岸辺に現れた。和井内夫妻が感動の涙にむせびながら湖面を見つめたとされる伝説のシーンだが、実際は戦場のような忙しさだった。
 
魚群発見後、漁具と舟の準備をし、集落に連絡して雇人を招集し、岸辺に網をめぐらせた。ヒメマスは生きたまま孵化場に運び、採卵、受精を行った。漁獲量は千尾以上、取り出した卵は176万粒。漁期はひと月ほど続き、漁獲量は1万尾以上に達した。
 
受精卵が発眼すると、20万粒を青森県の孵化場に贈った。翌年、稚魚120万尾を十和田湖に放流した。その2年後、稚魚が成長して帰るのを見る事無く、妻のカツ子は45歳で亡くなった。打ちひしがれた貞行だが、3年後には再婚して事業拡充に邁進した。毛馬内の屋敷で1919(大正8)年64歳で没した。
 
祖父貞行の帳簿を調べた水産学者和井内貞一郎は、出費が膨大で苦労の多かった割には儲けの少ない商売だったと総括している。》
 
教科書の偉人譚とは異なる実際の生々しい人物像が面白く、長々と要約、引用した。
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