「聞き書き 井上頼豊 音楽・時代・ひと」で印象的だった内容の一部を記録しておこう:
敗戦後、ソ連軍によって滿洲から船でウラジオストックに連れて行かれた。ソ連の人々も貧しく、殆どの人が靴を履いていなかった。女性が起重機の運転など肉体的に大変な仕事をしていた。傍にいた裸足のみすぼらしい子供が数人、突然合唱を始めた。捕虜になって心身ともに打ちひしがれていたところに強く訴えてきたこともあるが、合唱そのものが素晴らしかった。これでソ連という国を見直した。
ウラジオストックの近くのアルチョムという町の収容所で、ソ連の将校がピアノ・アコーディオンを持ってきて、「弾けるか」と訊いた。ロシアではボタン式のアコーディオンが普通だったから、彼らには弾けなかったのだ。アコーディオンなど触ったことも無かったが、楽器を試す振りをしながら仕掛けを調べて、弾いた。
別の町に行ってもやはりアコーディオンを弾かされた。「荒城の月」を弾いたら、(ソ連兵)皆がじっと聴いていたが、最後に将校の一人が、「搾取された民族の音楽だ」と言った。
「ロシアの民謡知ってるか」と言うので『ヴォルガの舟曳歌』を弾いたら、「とてもいい曲だが、どこの国の曲だ」と言われた。
翌年、やはり捕虜になっていた黒柳守綱氏とのアンサンブルを組まされた。ノートを貰い、五線を引き、一所懸命思い出して『カルメン組曲』らしい楽譜を作り、二人で合奏(バイオリンとアコーディオン)した。日本人も喜んだが、収容所の周りにいたソ連の人たちが大喜びだった。戦争を挟んだ長い苦労の後、久し振りに生の演奏を聴いたのだ。
これがきっかけで、楽劇団のようなものが出来た。演劇の方は『婦系図』などやった。井上が『大菩薩峠』の脚本を書いた。子供の頃新国劇のレコードが家にあって、一言一句全部覚えていたので、それに若干手を加えて書く事が出来た。
その後、北の方から北川剛氏がやって来て合流した。バリトン歌手だったが、寒い冬の巡回演奏で歌って声帯をこわし、帰国後は歌うのを諦めた。気の毒だった。
ソ連の人達は本当に歌が好きで、三人集まると合唱が始まった。作業所から町まで汽車で約1時間、乗り合わせた人たちが乗っている間中歌い続けていた。ところが、今ではあまり歌わなくなったらしい。 テレビの所為だという人もいる。
日本に帰って合唱団の指揮をするようになったが、厳しい指導をした。指揮棒を折って叩きつけたり、譜面台などを蹴飛ばしたりした。それは、一度言われたことを次に忘れている時などだ。いきなり怒ったりはしない。
一回(合唱団の)声を聞いてみて、これは音から入ったんでは、いつ仕上がるかわからないと思い、音を抜きにして、詩から入ったことがある。朗読する時のデクラメーションから入った。それを繰り返してイメージを一致させたうえで、音に結び付けていった。