山折哲雄氏と言えば、今を時めく“哲学者”だ(と理解している)。その山折先生の「『門』の内と外」という随想を読んだ。
肩書及び標題から、哲学的かつ抽象的な思索の展開を想像するが、実際は“男女の三角関係”の文学についての随想であった。全く、意表を突くネーミングだ。
源氏物語から夏目漱石に飛ぶ随想は興味深いが、ここでは深遠な内容には踏み込まず、言葉尻のレベルで鑑賞しよう。
“姦通の物語がそのまま葛藤の輪をさらにひろげて、三角関係の泥沼の暗闘にまでつきすすむような、、、”というさり気無いくだりで読む流れが止まった。それまで、姦通と三角関係とは殆ど同義語のようにしか認識していなかったからだ。
読み進むと、“英国に留学した漱石は、西欧文学の伝統のなかで姦通の問題が人間に深刻な三角関係を呼びおこすということにあるとき気がついた、”との記述に出会う。
ここに至って、三角関係とは、姦通が隠密裏に留まらず、利害関係者の知る所となり、三者の間に具体的な紛議を生じている状態を指すらしいと察しが付く。
これはこれで一件落着であると同時に、愚脳が以前感じていた違和感も解消された。単純に“姦通=三角関係”と認識していた頃、姦通の各当事者の利害関係人(それぞれ一人と想定する)を含めた計4人を並べてみたところで、直ちには三角形にはならないからだった。
当事者の一方だけに着目すれば、人数は3になるが、そのままでは閉じた三角形ではない。三人のそれぞれが他の二人と目に見える関係を有して、初めて三角関係になるという、つまらない問題意識だった。
結局、己の用語理解が不正確だったのだが、とにかく山折先生のお蔭で、すっきりした。先生が夢にも思わないような低次元の効用で、申し訳ない。
愚考ついでにもう一つ思い出したので蛇足を付す。
近年、“男女共同参画”なる表現を頻りと見掛ける。この語を冠した集会施設を我々も日ごろ活用している。某日、某氏が“ダンジョサンカク、、、”とか何とか発言した。フルネームが長いので、つい“共同”を抜かしたものだが、すかさず“サンカクカンケイ”とチャチャを入れられた。
勿論、“男女平等”と伝統的な用語を冠する施設も健在だ。
言うまでも無いが、随想標題の『門』は漱石の小説である。