冨永 望著「昭和天皇退位論のゆくえ」(吉川弘文館2014/05/20)を粗読した。著者によると、退位の可能性は4度ばかりあった。退位を求める声は、左翼からのみならず、右翼からも同様に上がっていたとは知らなかった。その論理は、やや持って回ったような感はあるが、聞けば納得する。
要するに、新しい軍隊の精神的な支柱となるべき天皇が、敗戦の責任者であっては具合が悪いということだったらしい。右翼の退位論者は、決して天皇制の廃止を見据えていたのではなく、逆に、強固な天皇制の再構築のために新しい天皇を望んでいたのだ。
退位論は、天皇の戦争責任論と不可分の関係にあった。右側にも、左側にも、天皇に責任があるとする論者がいた。軍事裁判に掛けられたレベルの軍人の中にも、天皇が責任を取らないのは筋が通らないと述べる者がいたそうだ。つまり、自分たちだけが裁かれるのは心外だということだろう。
ここで思い出すのは、これと同様な山田耕筰の居直り論法だ。市井においても天皇の戦争責任は結構議論されていたということか。ただし、著者によれば、戦後まもなくの頃でも、一般人の間では、天皇には戦争責任は無いとの認識が普通だったそうだ。
一方、昭和天皇自身はどう考えていたかというと、著者によれば、終始、留位(退位の逆)の意思を明確に持っていたらしい。みずから退位するつもりは毛頭無かった。その理屈付けは、文書資料によれば、“我が国の悲惨な状況からの立直りに努力して責任を果たしたい”ということのようである。
開戦の詔勅を発したことの責任は感じていなかったようだ。特殊な教育を受け、特殊な環境に置かれていた人に、あまり多くを期待することはできない。天皇の留位希望は、日本を同盟国として育てようとするアメリカ側に、天皇を利用する道を取らせた。
復興責任の論法が、天皇自身の心から出たのか、周囲の作文か、知る由も無いが、今でも頻繁に聞かれる居座りの口上に通ずる。失敗、過失の責任を取らない世の風潮は、昔から連綿と続いているのだ。これからも続くだろう。寛容な国民性に支えられて。「海ゆかば」など古い歌の好きな当管理人、大言壮語する柄でもないが。
ところで、「天皇制」とは、もともと共産党の用語だったそうだ。従って、帝国時代には、この言葉は、公然とは用いられなかった(議論すること自体が畏れ多い?)。それが、いつの間にか、国会の質疑で、政府側も使うようになったのだそうだ。
“ガンバロー、ガンバロー、ガンバロー、”と三唱して拳を突き上げるパフォーマンスが体制側にも定着したのと軌を一にするのか。
若い研究者から教わることが多くなった。