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赤い橋の殺人~罪と罰~亀谷乃里

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バルバラ/著「赤い橋の殺人」(亀谷乃里/訳 光文社2014.5)を疎読した。著者名、書名ともに初見だが、書評で“ドストエフスキーの「罪と罰」の原型を成した”とか紹介されていたのに惹かれて図書館にリクエストしたような気がする。
 
下手に書き換えるより、出版社のPR文を引用しよう:
 
“フランスで150年もの間、忘却の闇に埋もれていた作家が、一人の日本人研究者によって「発掘」され、いまや本国でも古典の地位を獲得しつつある。この作家こそが、バルバラである。ボードレールの親友であり、巧みなストーリーテリングと文体の音楽性、そして哲学的思考に秀でた稀有の小説家である。本書は彼の代表作。
 
19世紀中葉のパリ。急に金回りがよくなり、かつての貧しい生活から、一転して社交界の中心人物となったクレマン。無神論者としての信条を捨てたかのように、著名人との交友を楽しんでいた。だが、ある過去の殺人事件の真相が自宅のサロンで語られると、異様な動揺を示し始める。
 
“訳者 亀谷乃里 Kameya Nori
慶應義塾大学および大学院でフランス文学を学ぶ。ニース大学で博士号取得。慶應義塾大学講師を経て、女子栄養大学教授。ボードレール研究のほか、その友人で、長らく文学史から忘れ去られていた作家バルバラの作品を「発掘」、再評価したことで知られる。”
 
本文を読まずに、粗筋紹介だけを読んで作品を解ったような気になるのは良くないが、本書は決して読み易い“小説”ではない。翻訳書特有の読みづらさを別にしても、哲学論的な会話が延々と続いたりする箇所は飛ばし読みしたくなる。
 
そうした粗読の後に残る印象はと言うと、奇跡的な巡り合せで旧友が一つの埋もれていた事件の露顕に立ち会う面白さや、痛快冒険譚の趣である。つまり、筋書きはよく出来ており、退屈しない。更に、それが彼の有名な「罪と罰」に“驚くほど似ている”と聞くと、大変重要な歴史的な作品を読んだ時の満足感が得られる。
 
“訳者解説:この作品に連なるものとして、「罪と罰」(1868)、「カラマーゾフの兄弟」(1879)がある。「罪と罰」は「赤い橋の殺人」に驚くべき類似性を持つ。ドストエフスキーが「赤い橋の殺人」を読んだ可能性はないとはいえない(これについては拙論をお読みいただきたい1)。現代フランス文学、ロシア文学を専門とし、作家でもあるシルヴィ・オレも中・高校生の教科書として単行本で出版した「赤い橋の殺人」(2010)の最後を締めくくるにあたって示唆するように、バルバラは反抗の哲学、自由意思の思潮に関して、確かに過去から現代に変わるターニング・ポイントであり、そこからドストエフスキーを経て、ニーチェ、アンドレ・マルロー、カミュ、サルトルへと続いて現代の我々に至るのである。
1Nori KAMEYA, “Dostoïevski, auteur de Crime et châtiment, a-t-il lu L’assassinat du Pont-Rouge de Charles Barbara? ”, Revue de Littérature comparée, Paris, (Didier) Klincksieck, vol.37, no.4, p.505-512, Oct. 1993.  (pp.248-249)”
 
亀山郁夫氏推薦!(ロシア文学者)"これぞフランス版『罪と罰』だ" 
 
「罪と罰」を昔読んだ記憶は無い(罪と罰~ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ ~666 2012/1/22())。そこで、安直にも、ウィキペディアでその“あらすじ”を把握した。確かに思索好きの青年があこぎな金持ちを殺害し、その露顕を免れつつも、予審判事の働きで追い詰められる(破滅する?)のは同じである。出版の時期は、「赤い橋の殺人」から「罪と罰」まで約十年である。内容の酷似は、ドストエフスキーが「赤い橋の殺人」を読み、触発されて「罪と罰」を書いたことを推定させる。
 
このことを約百二十年後に日本人研究者が初めて明らかにしたというのは驚きだ。それまで、本場フランスやロシアの誰も気付かなかったとすれば、「赤い橋の殺人」が比較的短期間に忘れられてしまったことが与っているのだろう。それが百五十年も後に発掘され、脚光を浴びるのは、外国での翻案作品が世界的な名作として名を残したことによるとは、いささか皮肉な巡り合せではないか。
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