「詩人のための量子力学」を読んでも、光を中心とした粒子説と波動説の取り扱いがすっきりしない。通俗解説書の限界はあるだろう。読み方や理解力の問題もあるだろう。それらを認めた上で、疑問点を自己流で整理してみよう。
素粒子(及びそれらを構成する基本粒子など)は粒でもあり、波でもあるとか、粒子と波動の両方の性質を持つとか、場面に応じてどちらかとして振る舞うとか言われていると思う。観測事実がそのような結論を導き出すということだから、一応納得できる。
解らないのは、粒子性と波動性はどのように使い分けられるのかだ。と言うより、素粒子に意思がある筈は無いから、使い分けるのではなく、客観的(機械的)な原理があると思われる。
粒子としての特質を検出しようとすれば検出されるし、波動としての特質も同様だとしよう。そうすると、両者の特質が相容れない場面ではどうなるのか。粒子性と波動性が相互に排他的となる場合は無いのか。
いわゆる二重スリット実験がそうなのか。これは、光子が波として振る舞う証拠と見做されていると思うのだが、そうだとすれば、何故、光子は“波”であることを選択するのか。粒子の地位に留まらない理由は何か。
などと自問自答した後で、振出しに戻る。そもそも、粒子とか波とかの定義が不十分なままでの議論では埒が明かない。普通ではない量子論の世界を記述するのに、常識的な粒や波の概念を基礎にするのはナンセンスと言わざるを得ない。
素粒子は確率的な存在であるという規定は比較的に容認しやすい。粒とも波とも馴染み易いイメージだ。いっそ“確率子 probabicle”とか“確率波 probabave”とか呼んだらどうだろう。
観測されたデータを冷静に理論的に整理して得られるものが真実であるとする立場に立てば、素粒子以下の極微のレベルでは、量子論の描く世界像が正しいと言うべきだ。マクロ世界の常識からの類推を適用してはいけないのだ。
結局、光は粒子か波かとの問いは無意味なのだ。両方の特質を兼備する何物かだという他ない。その存在や振る舞いを我々がマクロの世界で認知するのは、粒や波の特質(量子的な光のマクロ的な現象)を通しての間接的な成果なのだ。
量子的存在の光(光子)を我々が直接に見たり、触ったり、そのほか感じたりすることは絶対に出来ないのだから、量子論は、あくまでも理論、仮説に留まると言うべきだろう。実用価値のある仮説だ。
進歩し続ける科学は、(今の)量子論の通用しない領域に、いずれの時にか踏み込むだろう。新しい仮説の出番の時がいつか来るのだ。