北見志保子/平井康三郎「平城山」については、過去に随分言及した。
表記例: 人恋ふはかなしきものと平城山にもとほり来つつ堪へがたかりき
古もつまに恋ひつつ越えしとふ平城山の路に涙おとしぬ
“「平城山」の2番に‘つまにこひつつ’とある。作詞者が女性で、彼女の気持ちを詠んだ短歌に作曲した歌であると教わっていたので、この部分は謎であった。夫を‘つま’と読む古文の例に倣ったものと解釈すれば解決するのだが、釈然としない”と書いたのはもう五年も前のことだ(つまにこひつつ~いまはもうかよわない~はためかせ 2009/10/24(土) )。
この件については、“古文”の例と理解してよいと判明し、一件落着したのだが、もう一つの難問があった。“戀ひつつ越えしとふ(こいつつこえしとう)”の部分だ。
古い仮名遣いを注意深く読めば問題無いかも知れないが、新仮名遣いに気を取られていると、極端な場合、“声慕う”と誤読しかねない。“越え”の表記があっても、“慕う”に惹かれる可能性は低くない。
当管理人自身がどのように理解していたかも今となっては判然としないが、ある講習会で“越えたという”の意味であると説明された。伝統的な俳句を詠む時には、“という”の意味で“とふ”や“てふ”を使うことがあるものの、「平城山」を歌う時にそこまで思い至るかどうか。
“もとほりきつつ”あるいは“もとおりきつつ”の部分は、“徘徊する”という意味は明らかであるが、発音は微妙らしい。現代語と割り切れば、“もとおりきつつ”そのままでも良いだろう。原詩の古風さを残したいならば、“もとほりきつつ”の通りに発音してよいかも知れない。
ただし、この部分だけ古風に発音するのも滑稽に響くだろう。講習会の講師は、“ホでもなく、オでもなく、ヲに近いのが良い”との意見であった。古式の発音フォを柔らかくウォと発音する積りで、という趣旨と解すれば説得力がある。
なお、「平城山」の歌詞は、もともと“昭和9年4月発行の『草の実』4月号に発表された”連作短歌のうちの2首である。問題の2番の歌詞は、“古へも妻にこひつつ越えしとふ平城山のみちに涙おとしぬ”となっているそうだ。(サイト“うたのうらばなしⅡ”による。)
つま(夫)ではなく妻と明記されているわけで、漢字表記「妻」は誤りであるとする通説は根拠が揺らぐ。この短歌は複数回、北見自身によって再録されており、表記には揺れがあるらしい。