古希を越えて以来、バスを利用することが多い。年間パスを2万余円で購入できる制度のお蔭だ。電車に較べれば、当然ながら時間的信頼度は低いが、余裕を見込んで行動すれば問題無い。
という訳でバス利用にかけてはかなり詳しくなった積もりでいた。ところが、暑気中りか単なる呆けか、今日は間抜けだった。
某停留所には2系統の発着がある。当管理人にはそのどちらでもよいことが多い。昼過ぎでバスの本数が極端に少なくなる時間帯、小学生が時間表を眺めていたので、標柱の反対側にも時間表があると教えた。
しっかりした子で、どこ行きかと問うて来た。A行きだと答えると、その子は、自分はBに行くのだと言った。
その問答で、その子は、間もなく来るA行きバスではなくもっと遅いC行きバスに乗るのだと思った。やがてA行きバスが来て、当管理人は乗った。その小学生に何か声を掛けた方が良いような気がしたが、無言のまま、C行きバスに乗るべく、当然の如く立っままの彼女の姿を後にした。
夜、拙宅で突然その光景が頭に蘇り、あの時声を掛けるべきであったことに気が付いた。単なる別れの挨拶ではなく、同じバスに乗ってもよいと教えなければならなかったのだ。そのA行きバスは、彼女の目的地Bを経由するのだった。
連日の暑さで脳みそが沸騰していたのように、単純な解り切ったことに気が付かなかった。彼女は更に10分余りバス停で暑さに耐えなければならなかったことを思うと、とても罪深い過ちを犯したような気分だ。
ところで、近頃、“声掛け事案”なる警察用語を新聞などで見掛ける。小学生など(特に女児)に見知らぬ大人(特に男)が声を掛けることを意味するようだ。学校と保護者との間の連絡事項に登場するのだろう。
だから、知らない子供には、むやみに声を掛けない方がよい社会になったのだ。善意の声掛けであっても、犯罪予備軍に分類されかねないのだ。
一方、積極的に声掛けを励行しようという動きもある。物理的に出入り自由の施設、敷地、構内などで、見慣れない人物に出会ったら声を掛けようという趣旨だ。不審者に対する牽制効果があるのだろう。
同じ“声掛け”という言葉だが、マイナスイメージとプラスイメージ二様に用いられるのが面白い。