正月明けに大ホールで高田三郎《啄木短歌集》から4曲ばかり演奏することを企んでいる所為か、近頃石川啄木に意識が傾いているようだ。今日も、古い雑誌(俳諧雑誌 大正8年7月号)に目を通して、以前の投稿(石川啄木~空を見上げて~石井露月 2013/7/11(木))を思い出した。時間を共有した啄木と露月との接点の有無に再び興味が湧いた。
ある資料に、“野村胡堂(1882年10月15日 - 1963年4月14日)は岩動孝久(俳号露子),菊地健次郎,猪狩見竜(俳号五山)らと~~~野村も董舟を俳号とし,優れた友人たちとともに句作を楽しむ。野村董舟は仲間の岩動露子,岩動炎天,猪狩五山,猪川箕人の五名で夏に秋田への吟行を試み,後年,その思い出を楽しそうに記してもいる”とある。
この吟行は明治33年7月17日から始まり、露月を含む秋田の俳人の胸を借りての俳句修行であったことが知られている。
また別の資料によれば“ 岩動孝久は石川啄木・野村胡堂・金田一京助などと知己であり、露子の俳名で俳句をものした。孝久の実弟・康治(道行の父)も兄の影響で炎天の俳名で句作に親しんで”いる。
つまり、啄木と親しかった野村胡堂、 岩動孝久らが露月と親しく俳句を吟じ合ったのだ。胡堂だけでなく、康治も露月も、このことを書き残している。
その時期、啄木は何をしていたか。ある資料によれば、啄木は“1900年(明33)7月18日,担任富田小一郎に引率され,阿部修一郎ら級友7人と岩手南海岸への丁二会修学旅行に出発。一関から気仙に出て,啄木ははじめて海を見”た。
また、この頃(同年秋)から“翌年にかけて及川古志郎,金田一京助(花明),野村長一(胡堂)らの感化を受けて文学に目覚め,折から創刊された『明星』を金田一に借りて愛読”した。
というような状況だったとすると、夏休みにそれぞれ長期旅行をして盛岡に帰った胡堂、孝久らと啄木とが体験を語り合う中で、露月が話題に上ることは有り得ただろう。啄木が関心を示すとは限らないが。彼はまだ14歳だった(露月は27歳)。