先の戦争中の思い出として“(昭和)十八年一月に約一千曲の演奏禁止のリストができました”とある(p.74)。その欄外註が面白い:
“禁止曲には次のようなものが含まれている。 デキシーランド、ヤンキー・ドゥードゥル、アンニー・ローリー、ラプソディー・イン・ブルー、オールド・ブラック・ジョー、峠の我が家、アメリカン・パトロール、スワニー河、谷間の灯ともし頃、アロハ・オエ・・・。
「『蛍の光』も『埴生の宿』も『庭の千草』も『更けゆく秋の夜』も『夕空はれて』も、我々に永年親しまれたとはいへ敵の歌だ。そんなものに恋々として戦争はできない。家庭からも学校からも演奏会からも、有(ママ)らゆる米英の曲は追い出してしまう。それが音楽者としての戦争の手はじめだ。」(堀内敬三)=『音楽之友』昭和十八年新年号”
堀内敬三と言えば、永らくアメリカで勉学し、帰国してからは彼の国の音楽なども随分紹介し、米英の愛唱歌の訳詞を沢山手掛けていると記憶する。時局柄とは言え、実の処し方の巧みな人だったのだな。
井上頼豊は、(戦争遂行に音楽家として積極的に協力した)山田耕筰についても、“信念からと言うより、世の中に掉さすのが非常に早かった、それだけ”と評している(p.71)。
因みに、上記『音楽之友』昭和十八年新年号の堀内の論説には、次のような前段がある:
“~~~、いまもって軽音楽をやる人々の一部が米英の楽曲を平気で演奏していて憤慨に堪えない。ずるい人になると題名を時局的に変え(たとえば《南の風》など)、作曲者名を削除して自分の名を編曲者として入れてハワイ音楽やブルースをそのままやっている。
われわれは大正中期から昭和初期にかけて~~~アメリカ映画やアメリカ型レヴューを見、アメリカ音楽を聴いた。したがって~~~米英楽曲を一般大衆が好むことを必ずしも咎められない。
しかし、そうだからといって音楽家がその好みに媚びることは許されない。聴衆が好むものでも、有害なものは棄てなければならない。
米英文化は有害であり、反国民的である。米英音楽を捨て去るように聴衆を導かなければならない。”(小関康幸のホームページ)
実に単純明快、その変わり身の鮮やかさには只々感心するのみ。小生もそんな器用さがあれば、今頃はもっとマシな境遇にあるかも。