思文閣出版のPR誌「鴨東通信」No.108(2018/4・春夏)に、日本語の知識(教養?)を豊かにしてくれそうな話題が二つ載っていた。
●日常語のなかの歴史21 ≪そそう【粗相/麁相】(朴廷)≫
【麁相】は初見だ。ソソウと仮名でも降られていなければ読めもしない。【粗相】の元字だそうだ。【粗相】の表記は明治以降一般的になったもので、“粗相のないように”など、否定的意味合いでしか使わない。
ところが、もともとは、肯定的な意味でも使われていたという。つまり、肯定、否定両様に使うことのできる言葉だった。「そそうに(なるように)」と茶書でつかわれたそうだ。
【麁】の字体は元来麤(鹿を三つ)で、その原義は、(鹿は羊のように群れないことから)“遠く離れる”ことだという。余裕があるという意味で、良い語感に繋がるのだろうか。
ところで、鹿の対比で羊が記されているが、≪羊が三つ≫の漢字羴は≪なまぐさい≫の意味しか無いらしい。比較的によく見掛けるのが≪牛が三つ≫の犇で、こちらは≪ひしめく≫のいみだから、鹿の対比先として適当なのではないだろうか。
●エッセイ ≪彷徨わない幽霊(小山聡子)≫
平安時代から鎌倉時代にかけての大歌人藤原定家は、日記「明月記」の中で、その父でやはり大歌人であった俊成の臨終の様子を詳細に記している:
俊成は死の近いことを覚り、極楽往生を願って、抱き起してもらった上で念仏を唱え、「安穏」に息を引き取った
その二十年余の後、定家は俊成の忌日法要を行い、「幽霊」は最後の夜半に(お経を)暗誦して亡くなったと述懐した。「幽霊」とは俊成のことである。故人ではあるが、実体のある人物を指して「幽霊」と呼んでいる。
従来、「幽霊」なる語は世阿弥以前にはほとんど使われなかったと説明されてきた。しかし、それは文学作品に限られたことで、古記録、古文書には「幽霊」が多数出てくる。また、それは成仏できなかった死霊の身を指すわけではなく、故人そのものを指すこともあった。
“幽霊は良い人だった”などと幽霊を称賛する古文書もしばしば目にされる。
“彷徨わない幽霊”の事例は古代から中世にかけて珍しくはないことがわかった、とのことである。
ところで、“彷徨わない”の読み方に迷ってしまった。“さまよわない”だろうとは推測したが、あまり自信は無かった。“さすらわない”の可能性もあると思った。こちらは漢字を使うならば、“流離、漂泊”がしっくりするようだ。
要するに慣用の問題だろうが、“さまよう”には目的地、お目当てを見付けられない様子が想像され、“さすらう”には、目的、当てもなくの感じがありそうだ。漢字の原義もそうなのか、漢字大辞典にあたってみよう。