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中西進~聖徳太子暦~和の精神

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學士會会報No.906(平成265月発行)に、中西進氏(日本文学研究者)が「~随 想四つの聖徳太子暦」を寄せている。タイトルも本文も些か解りにくかったが、結構面白い。内容を独断で整理すれば次のようになる。
 
聖徳太子が十七条憲法を制定した推古12年(604AD)を紀元とする。ここから四つの暦を数える事が出来る。
 
   十七条憲法の和の精神を継承しようと、勅撰集の撰進が相次いだ。先ず、150年後、753ADに最初の試みが始まった。これは完成しなかったが、更に150年後、905ADに『古今集』勅撰が成った。序文の和歌の力の記述は有名である。ここまで300年で、さらに300年後、1205ADに『新古今集』の一往の完成を見た。また、順徳天皇は『禁秘抄』によって和歌と天皇との深い関係を北条氏に説き、後水尾院は古典、和歌の尊重をサロンの形で徳川幕府に示し、明治天皇は歌会始に国民から和歌を詠進させた。これらは、歌人政治の体制を目指したともいえる。
 
   戦乱にあって平和を願う祈りが十七条憲法に鑑みて行われた。藤原頼長は四天王寺に参詣して聖徳太子の像を拝み、「もし天下を摂録せん時には、願はくは十七条の憲法に任せて之を行はん」と誓った(1143AD)。徳川家康も、全国平定後の国家の安定に向けて諸法度を作る中で、1615ADに、十七条よりなる「禁中並公家諸法度」を制定した。そして、第二次世界大戦のあと、1946ADに、武力の放棄を謳う今日の平和憲法が制定された。
 
   太子は、十七条憲法の制定の前後に、対新羅戦の停戦を決断し(603AD)、遣隋使を派遣した(607AD)。憲法の第1条「和をもって貴しとなす」は、抽象的な人倫の和にとどまらず、具体的な停戦の反映だった。遣隋使の派遣は、新羅から隋への外交政策の転換である。このように、太子は半島との抗争を避け、文明の中心地、中国へと向きを変えたのだが、以後の日本はこの精神に学ばなかった。つまり、反面継承の暦となってはいるが、太子暦の本質がうかがわれる。
 
   十七条憲法には「等しく三宝を敬え」と規定され、仏教の受容が宣言された。在来のモノ信仰、カミ信仰に加えて、いち早くホトケ信仰を取り入れて、過激な宗教戦争を未然に抑えた。その成功が民衆の上に及ぶ大きな暦を作っている。
 
以上四つの暦、枢要な時系列が、すべて太子の十七条憲法の制定に源泉を持つという着想は実にユニークである。太子や十七条憲法については、後世の脚色が疑われることを十分に承知の上で、中西先生は“和の精神”が日本史上、連綿と受け継がれていると述べるのであるが、それは願望であるかも知れない。推測するに、最近の政府首脳の軍事力重視、好戦性を憂慮しての寄稿なのではないか。
 
当管理人的には、十七条憲法(604AD)、勅撰集の試み(753AD)、『古今集』勅撰(905AD)、藤原頼長の誓い(1143AD)、『新古今集』(1205AD)、「禁中並公家諸法度」(1615AD)、平和憲法(1946AD)といった関係事項の生起周期性、区切りの良さが面白い。事項選定に中西先生の意図が反映されているとしても、充分に興味深い事実である。
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