無数と言っていいほど沢山の歌が溢れていて、歌の主題として特定の事物、事象が好まれるからには、同名異曲の出現は必然である。
間もなくやってくる“母の日”とやらに因んで、“母”関連の歌を渉猟したところ、例えば、次の二つの「母の歌」が目に付いた。
母の歌 板谷 節子/橋本 国彦 /国民歌謡
ごらんよ坊や あの海を
沖は朝風 お陽さまよ
坊や海の子すくすくと
潮の息吹で 育つわね
ごらんよ坊や あの山を
ごらんよ坊や あの山を
峯は白雪 あおぞらよ
坊や山の子 手を振って
坊や山の子 手を振って
今にあの峰 登るわね
ごらんよ坊や あの旗を
ごらんよ坊や あの旗を
風はそよ風 日の丸よ
坊やも起って 高らかに
今に「君が代」 歌うわね
母の歌 野上弥生子/下総皖一/文部省唱歌
母こそは 命のいずみ
いとし子を 胸にいだきて
ほほ笑めり 若やかに
うるわしきかな 母の姿
母こそは み国の力
おの子らを いくさの庭に
遠くやり 心勇む
雄々しきかな 母の姿
母こそは 千年の光
人の世の あらんかぎり
地にはゆる 天つ日なり
大いなるかな 母の姿
個人的に知る限り、橋本版「母の歌」の方が有名だ。昔の国民歌謡でラジオから流れたからだろうか。レコード音源を聴き比べると、下総版の方が心に沁みる。短調っぽいからかも知れない。
歌詞の深みが違うとも言える。板谷の詞は、母の子に対する期待を具象的に表現している。
野上の詞は、社会・国家における母親の役割を美的に表現し、大地を照らす太陽になぞらえている。母も子も、総てを鳥瞰する歌となっている。
優劣を論じるべきものでもないが、聴く人に与えるインパクトには違いが出ても不思議は無い。
両詞に共通する点も目につく。どちらも、軍国主義への迎合は覆うべくも無い。その結果として、今はどちらの歌も、3節ある内の1節が、通常歌われないそうだ。逆に、現代の風潮に迎合せず、3節全部歌うという硬骨の氏もいらっしゃるらしいが。
当管理人も、歴史的事実は正確に伝えるべきだと思うから、現代の思潮に合わせてのつまみ食いは、神経質すぎると思う。
他にも諸大家の「母の歌」がある。集めて歌い較べるのも一興。