唱歌「われは海の子」の軍歌調伴奏譜に関連して念のため記しておきたいのは、もともとその歌詞が軍国少年を鼓舞する文句で締められていることだ。 戦後は歌われなくなった7番:
いで大船を乘出して 我は拾はん海の富。
いで軍艦に乘組みて 我は護らん海の國。
歌詞6番までは、勇ましい表現に溢れているが、特段軍国主義的とは言えない。戦況が厳しくなってきた時期の唱歌編纂に当たり、伴奏にも危機感が反映したものか。
軍歌調はさておき、歌詞について思い出されることの一つに、「琵琶湖周航の歌」への影響がある。歌い出しが同じ文句“われは うみのこ”であることは、“うみ”が海と湖とに書き分けられているにしても、やはり口や耳に馴染んだ表現を踏襲したと考えてよいのではないか。
また、「琵琶湖周航の歌」歌詞3番
波のまにまに 漂えば 赤い泊火(とまりび) 懐かしみ
行方定めぬ 波枕 今日は今津か 長浜か
にある“行方定めぬ 波枕”は、「われは海の子」4番
丈餘のろかい 操りて 行手定めぬ 浪まくら
百尋千尋 海の底 遊びなれたる 庭廣し。
の“ 行手定めぬ 浪まくら”に瓜二つである。
旧制高校のボート部員が「琵琶湖周航の歌」を作詞したのが1917年、「われは海の子」の世に出たのが1910年であり、無意識の内にも影響されたことは十分に考えられる。