昨日、月刊誌「俳星」4月号(2014年)の記事を基に石井露月の俳句について初歩的な疑問をアップした後、同5月号が届いた。
めくると、巻頭言は同じく露月論である。実は連載『露月折々』で、今号は第44回となっている。随分と永続きだ。それだけ材料に事欠かない、事績豊富な俳祖と言える。
さて、今号は、のっけから露月句を表題とする小論の引用である。
棒鱈(ぼうだら)の荷(に)も片(かた)づきぬ初燕(はつつばめ)
~ 福田甲子雄『忘れられない名句』(毎日新聞社 平成16年)
以下、巻頭言を書いている俳星主幹・石田冲秋氏の寸評から:
“~掲句には「棒鱈」と「初燕」と共に春の季題が用いられているが、著者が解説の中で述べているように「初燕」の句である。この句ばかりでなく露月句には、こうした一見季重なりの句が見られるが、しっかりと軽重を踏まえている。”
当管理人の如き初心者の抱くであろう疑問を見透かしたかのような今号のフォローアップだ。
同主幹によれば、季題(季語)が重複していても、いずれが主であるか明瞭であれば季重なりとは見做さないというわけだ。
だとすれば、その判断は当然、俳句を鑑賞する人ごとに異なる可能性がある。一つの俳句でも、受け止め方は、その人の人生経歴により様々だからだ。勿論、詠み人の気持ちは一つに定まっているのだが、発表された俳句は独り歩きする。自明の理、書き記すまでも無さそうだな。
とにかく、季重なりは、あまり神経質に避ける必要は無いと考えていいのだろう。
同主幹には、フォローアップ序に、“切れ過剰”の問題についても解説して頂けると有難い。