月刊誌「俳星」4月号(2014年)巻頭に、伊藤整が『硯友社と一葉の時代』で石井露月について書いた部分が転載されている。
少年の紅葉に狂すときかばわれ
去つて栗留まつて酒いづれ秋
概して露月の句は難解だ。“少年の~”の句も直ぐには理解できない。暫く頭を捻って、“年端の行かない子供のくせに、紅葉を愛でる風狂な奴、と噂があれば、それは私のことだ”と自虐しているのだろうと推測した。そのように理解すると、なかなか洒落た句だと思われてくる。
“去つて栗~”の句は一層難解だ。句単独では殆ど意味を成さない。郷里に戻る直前の作という予備知識に縋って解釈すれば、“今頃田舎に行けば栗が実っていて、それを食べるだろうが、ここ(東京)に留まれば酒を嗜む日々となるだろう。どちらが秋らしい生活か(言うまでも無く、栗の方だ)”となる。
両句の我が解釈にあまり自信は無いが、一応、理屈は通るだろう。理屈を捏ねるまでも無く直観的に理解するところに俳句の面白味がある、と思うと、些か自己嫌悪に陥る。
ところで、“去つて栗~”の句は、教わっているところの俳句作法に照らすと、問題がある。先ず、季語が多過ぎるのではないか。「栗」と「秋」が重なっていると思ったのだが、《俳人石井露月を顕彰するホームページ》の解説によれば、「栗」と「酒」が季題で、季節が「秋」となっている。
季題は季語と同義と解するとしても、「秋」はその範疇に入らないというわけだ。季節名そのものだから季語とは言えないということか。この辺は俳句を嗜む者の常識なのかな。
「酒」が季語だということも知らなかったので検索すると、冬の季語だとある。「栗」は勿論、秋だろう。“行く秋や 手をひろげたる 栗のいが”(芭蕉)というのもあるそうだから、季語と季節名は重なっても構わないようだ。
もう一つの問題は、“去つて栗・留まつて酒・いづれ秋”と、上中下3部分に切れることだ。こういう上中下三分は悪い形(何と称するのか知らない。)だと教わったのだが、流派によって考え方が違うのかな。
しかし、子規の高弟と評価の高かった露月ほどの手練れが、初心者から問題点を指摘されるような駄句を作る筈が無い、と考える方が妥当であるとも考えられる。
愚説が文字通り愚劣、錯誤である可能性もあり、芸術の世界には絶対のルールは無いことの一例かも知れず、先達の教示を頂きたいところだ。