よく利用させて頂く阿辻哲次先生の日経日曜版連載随筆≪遊遊漢字学≫、昨日は難解だった:
「一字千金」は自信の表れ?
~~「不刊之典」ということば~は中国の古典を扱う者には常識といってもいいことばなのだが、~ 「刊」は「木を削る」というのが本来の意味で、それでこの字には刀を表す《リ》(リットウ)がついている。「刊」という字を私たちはふつう「出版」という意味で使うが、それも昔の木版印刷では版木を削って文字を彫りこんだからにほかならない。
「不刊之典」の「刊」も「削る」という意味だが、しかしこれはどこにも修正すべき記述がなく、いつまでも伝えるべき書物をいい、出版とは関係がない。
中国で~~紙が登場するはるか前から、漢字は紙以外の素材に書かれていたわけで、その中でもっともよく使われたのが竹や木を短冊状に削った札だった。
竹や木の札に文字を書く時に、もし書きまちがえれば訂正するのがなかなか難しい。~~そんな時は、書きまちがった部分をナイフで削り落とし、その上からあらためて文字を書くしか方法がなかった。だから古代の書記たちは、竹や木を削るためのナイフ「書刀」を常に腰にぶらさげていた。
~~しかし世の中には名文家を自負するものもいる。秦の大商人であった呂不韋(りょふい)はみずから編集した『呂氏春秋』という書物を都の入口にある門に置き、「よく一字を増損する者あらば千金をあたえん」と掲示したという。これが「一字千金」の由来であるが、さても大した自信である。~
前半の、「不刊」が≪どこにも修正すべき記述が無い≫という意味であるとの説明はよく解る。しかし、「不刊之典」が≪いつまでも伝えるべき書物≫の意味になる過程が解りにくい。文章の形式的完全性とその内容の価値とは別物だと思うのだが。
後半の、「一字千金」は全体のタイトルにもなっているが、特に説明は与えられていない。意味は自明だということだろうか。「一攫千金」とか「一刻千金」とか類語(?)を思い出すものの、用法のニュアンスは違うようだ。
と、消化不良の気味であったが、「よく一字を増損する者あらば千金をあたえん」に戻って少し考えて、やっと解ったような気になった。一読した時、「増損」の意味を把握できなかったのだ。二読で、「増」と「損」が対であるらしいと気が付いた。つまり、「増減」と同義なのだ。
かくて、「一字千金」と「一刻千金」は用語法を共通にすると断定できた。
近々歌う機会が訪れる、武島羽衣/滝廉太郎「花」の第3節:
錦おりなす 長堤(ちょうてい)に
暮 (く)るればのぼる おぼろ月
げに一刻 (いっこく)も 千金の
ながめを何に たとうべき