何故か(図書館で)愛読している日経新聞だが、経済記事には目が行かず、主に文化欄(大体は最終面)に目を通す。朝刊に毎日連載の≪私の履歴書≫の今月の筆者が女優・草笛光子であることは見えていたが、芸能関係には興味が無いから読んでいなかった。
ところが、今日1月31日は、先月≪音楽の冗談②~モーツァルト~鏡のカノン 2017/12/10(日)≫で引用した芥川也寸志(「やすし」から「也寸志」には変換されない)の命日だということで、改めて検索すると、何と草笛が彼と短期間結婚していたと、ゴシップめいた情報に遭遇した。
芸能関係云々と偉そうなことを言いながら、急に好奇心が募り、今度は≪私の履歴書≫のバックナンバーを通覧し、彼女自身の言葉を見付けた:
草笛光子(11)結婚日々に疲れ早々と離婚 「光子の窓」終了の契機に私の履歴書
2018/1/12付
日本経済新聞 朝刊
「火刑台上のジャンヌ・ダルク」は火刑に処せられたジャンヌが息絶えて終わる。演じる私は立ったまま目を閉じ、首をわずかに傾けて、その瞬間を表現する。悲愴(ひそう)な音楽が鳴り響き、そして静かになる。このとき私は、それまでにない経験をした。~~~
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楽屋ではひとりの女性が私を待っていた。作家、芥川龍之介の夫人で、私は彼女をバブちゃんと呼んでいた。バブちゃんは私を見ると言った。「これだけのお仕事をなすったのですから、もう来てくだすってもいいでしょう」。そしてポロリと涙をこぼした。
じつはこの前の年、私はバブちゃんの息子さん、つまり作曲家の芥川也寸志さんと婚約していた。菊田一夫先生ご夫妻にお仲人をお願いしていたのに、まだ結婚していなかった。バブちゃんの言葉と涙が胸に響き、ようやく心が決まった。次の年、1960年に芥川さんと結婚した。
芥川さんとは私がまだ松竹歌劇団にいたころ、ラジオ番組の収録に行った放送局で出会った。お付き合いをするようになったときにはご家族がいらして「離婚するから2年待ってほしい」と言われた。お付き合いしているさなかには、お仕事で京都に行っていた芥川さんの宿で女性が自殺する出来事があった。そのときのつらさは忘れられず、ずっと胸の奥に残った。
結婚したとき、私は「光子の窓」に出演していて、続けるつもりでいた。でも芥川さんはそれが気に入らず「自分の音楽と世界が違う」と言う。~~~
翌61年、私は俳優の宝田明さんと南米に向かった。ホノルル、ロサンゼルス、ニューヨークを経てサンパウロ、リマを回った。現地で東宝の映画を上映し、歌と踊りのショーをお見せする。ニューヨークでは久しぶりにミュージカルの舞台を観(み)た。
1カ月近く、外国の空気をたっぷり吸って帰国した。結婚生活はぎくしゃくしたものだった。~~~
結婚は1年9カ月で終わった。思えば、結婚式の日の朝のあいさつで、祖父母につい「ちょっと行ってまいります」と言ってしまった。ほんとうに「ちょっと」の結婚生活だった。
芥川は、いわゆる革新系の文化人だと思っていたが、私生活は結構派手だったようで意外な感じを受ける。また、当方の嫌うJASRACの理事長としても“功績”があるという。革新系すなわち反体制派という単純な図式からすると、権力機構の出先のようなJASRACに芥川とは、木に竹を接ぐチグハグさだが、今とは状況が違ったのだろう。
今を去る55年も前に離婚し、既に故人となっているとは言え、元夫の命日に己の履歴を綴った連載記事の最終号が華々しく大新聞の紙面を飾る因縁に、感慨は無いだろうか。そもそも、意識されないだろうか。と、些か野次馬的勘ぐりを押さえ切れない。
なお、本日はシューベルト(Franz PeterSchubert, 1797年1月31日- 1828年11月19日)の誕生日でもある。彼の生没日付け「17970131」「18281119」は、共に素数だ。芥川の没日付け7桁表示「1989131」も素数。