「ペチカは燃える 若き作曲家今川節君のこと」(昭和38年10月、今川節顕彰会)は今川節の伝記であるが、中に、彼自身の書いた文が引用されている。“彼が死ぬ前の年、すなわち昭和八年一月、ある新聞のために書いた随筆”だとある:
“音楽むだばなし
~~ぼくのペチカについて思い出すこと
~~~雪が降ると思い出すのは、ぼくの作った「ペチカ」の曲のことである。これは、ぼくがまだ十八歳、ほやほやの音楽少年のころの作品である。~~永井郁子女史が丸岡に来られた時も、これを見せたらとても褒め下さって、以後、東京・大阪・名古屋・北海道など、方々のステージで歌って下さった。~~”
今川が「ペチカ」を作曲したのは1926年8月で、初演は翌27年4月となっている。その後、方々で発表し、福井県内では結構知られ、歌われるようになったそうだ。
しかし、この「ペチカ」が出版されることは無かったようだ。彼自身が、この随筆の中で、“3年ほど前にある出版社に売ったが、不景気で楽譜の出版は駄目になり、ペチカもお蔵入りになった”と書いている。
そのペチカを日本各地で歌ってくれた永井郁子女史とは何者か、検索したところ、興味深いことが判った。ウィキペディアによれば、次の通り:
結婚後僅か1年で離婚に至ったのは、耕筰の暴力、今風に言えばDVが原因だったとのことだ。山田耕筰が妻に暴力を振るっていたことで、心ある人達の非難を浴びていたことは何かで読み知っていたが、その被害者が永井郁子女史だった。
となると、彼女が今川版ペチカを積極的に歌って回ったのは、その曲の良さに加えて、耕筰への意趣返しの気持ちもあったのかも知れない。今川はその辺の事情を知らなかった可能性が高い。
それにしても、耕筰のDVの被害者であった永井郁子女史が、痛手から立ち直って“昭和に掛けて活躍した”とすれば、フェミニストたる当管理人も多少救われる。