「ペチカは燃える 若き作曲家今川節君のこと」(昭和38年10月、今川節顕彰会)で、今川と東海林の面白い関係に気付いた。
今川(24歳)が作曲部門で第1位を取った第2回日本音楽コンクール(1933)の声楽部門の本選に東海林(34歳)が出場していたのだ。
彼がクラシック歌手を目指してコンクールに応募したが優勝できなかったということは何かで読み知っていたが、上掲書に掲載されたコンクール主催者・時事新報の社告に各部門の本選出場者名があり、この時の事と判った。永田絃二郎も名を連ねていた。優勝者は井崎嘉代子となっている。
声楽部門の本選は第一夜5月13日(土)で、夜行列車で上京した今川はその模様を会場で見、聴いたそうだ。東海林の歌も当然聴いたわけだが、己の死後、代表作と言われる「ペチカ」を彼がレコードに吹き込み、全国に広めることになろうとは知る由も無い。
東海林の方は、このことに関して何か言葉を残しているだろうか。既に売れっ子歌手となっていた東海林は、1934年には113曲も吹き込んでいるそうだから、そのうちの1曲でしかない「ペチカ燃えろよ」の作曲者名を気に留めなかったとしても不思議は無い。
上掲書にそのレコード盤面のスケッチが載っている。上部ロゴの下にローマ字で“POLYFAR RECORDING”と記入されている。録音機材を明示する慣例があったのだろうか。ドイツ製(?)高級機材を使用していることを誇示しているのかも知れない。