うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 情悲しも 独し思へば(巻19・4292)
(原表記は、≪宇良々々尓 照流春日尓 比婆理安我里 情悲毛 比<登>里志於母倍婆≫のようで、万葉仮名でも比較的に読み易い。)
当方は、義務教育(多分、中学時代)の国語教科書で教わったと思う。穏やかな陽春の日の気だるさを感じさせる素直な歌と言う程度の認識をずっと持ち続けていた。
天平勝宝5年(西暦753年)2月25日(新暦4月7日)に詠まれたこの歌は、実は、それほど単純な歌ではなく、家持にとっては些か深刻な事情が隠されているとのことだ:
≪~いま悲しみ嘆く気持ちは歌でなければ払うことができない・・・・という。少納言として三年目を迎えた家持であるが、なぜか彼を取りまく政情や自らの前途に暗雲がたちこめていたのである。≫
大和朝廷のエリート貴族として栄達の道を歩む筈であった家持は、何故か陰謀事件に加担したと疑われること数回、その度に失脚の危機に見舞われながらも運よく名誉回復したものの、最後は陸奥鎮守将軍として在任中に死去した際の状況も曖昧である。
歌人としての名声を歴史に残した家持であるが、生きた朝廷貴族、行政家としての彼は、国家の中枢を掌握していた藤原一族にとって、目の上のコブの如き存在だったのか。藤原一族の地位を脅かしかねない勢力の一角を占めていた大伴氏の中でも、家持は実務的手腕や人望が高く、危険人物と目されたのか。