九州では大雨で甚大な被害が報じられているが、当地ではほぼ空梅雨の炎天が続く。先月の老人ホームコンサートでは雨特集で幾つもの歌を取り上げたことをボーっと思い返していたら、突然、次のような童謡が頭に浮かんだ:
≪あまがさからかさ かさのなみ 父さん迎えにいきましょう
雨が降る降る停車場に チュンチュン燕の宙がえり ≫
この続きも、題名も浮かばないのでネット検索したところ、次の通りと判明した:
≪雨傘唐傘 竹内俊子・詞 河村光陽・曲
雨傘唐傘 傘さして 父さん迎えにいきましょう
雨が降る降る日暮れ道 つんつん燕の宙がえり
雨傘唐傘 傘の波 お傘の行列ならんでく
私は父さんお迎えに あの子は母さんお迎えに
雨傘唐傘 傘あげて 父さんここよと呼びましょう
雨が降る降る停車場の 垣根に綺麗な薔薇の花
雨傘唐傘 傘廻そ 父さんお帰りうれしいな
燕来い来いここまで来い 一緒にお家へ帰りましょう≫
当方が何十年ぶりかに思い出した歌詞は、1~3番の渾然一体となったもので、助詞「の」が文脈に合わせて「に」に変わっている。それにしても記憶の再生とは不思議なものだ。何があの歌を(変形させた上でとは言え)思い出させたのだろう。運命論的因果関係説を捨てて、量子論的偶然の為せる業として片付けてしまえば、すっきりする。
「雨傘唐傘」を脳内で再生していると、≪蓑着て笠着て 鍬持って お百姓さん ご苦労さん≫のうたが連想された。曲想が似ているのだとすれば、作曲者が同じなのかなと想像したが、検索結果は
「お百姓さんの歌」武内俊子作詞・丹生健夫作曲
で、作詞者が同じであった。歌詞が、どちらも八・五調だ。こんなことで同一作詞者の歌が連想されるとは驚きだ。尤も、これまた単なる(量子論的な)偶然として片付ければ、運命論的感傷に浸るささやかな楽しみも無い。